街づくりも食べ物も「本物を」 公害経験の水俣から福島へメッセージ
当初は宴会芸グループだったが、大災害が転機になった。2003年7月、水俣市山間部の宝川内地区で土石流が発生し、15名が死亡した。2年後の春、復興に向けた祭があり、「やうちさんに盛り上げてもらいたい」とお願いされた。「こんな場所で『笑い』を提供していいのか」と悩んだ。 終了後、集会所に集まった約50人の表情が一変した。「2年ぶりに笑った」「ふさぎこんでいたのが吹き飛んだ」と、泣きながらいわれた。 「人は、深い悲しみに直面したら、笑顔にあいたいんだ」と気づいた。 今では年間公演が50回を超える人気ぶりだ。「語り部とやうち、両方お願いしたい」との依頼も、最近1、2年で増えた。「語り部は敷居が高いこともあるが、やうちなら構えずできる。これも、母の思いなのかなと。『笑わんばだめぞ』と母はよく言いました」。笑顔で答えた。
原発事故の福島と始まった交流
水俣病の公式確認は1956年。翌1957年、茨城県東海村で原子力の灯がともった。「水俣病と原子力」。両者は時代をともにしてきた。 今回の福島第一原発事故を受け、福島県民が水俣市を訪れる機会が増えてきた。逆に杉本肇さんは、水俣の小学生を福島県に連れていく交流を続ける。 元水俣市職員の吉本哲郎さんは、福島へメッセージを送る。 「本物をつくることが大事。本物を伝えることも大事」 食べ物も、地域づくりも、本物を作ってきたのか。今後への覚悟はあるか。問いかけの先に「希望のまち」がある。 (ヤフー・ジャパン/復興支援室 森禎行)