「京都、こわくない?」長年暮らしたNYから縁もゆかりもない京都に移住した理由
なぜ京都は「こわい」?
冒頭の話に戻るけれど、京都は、なぜ「こわい」のだろう? 老舗の敷居が高そう(で、こわい)とか、「一見さんお断り」のような京都ルールが難しそう(で、こわい)とか? でも多くの人がこわがるのは、”京都人”である気がしている。原因は、京都特有といわれる”いけず”に違いない。 私の解釈では、いけずとは、相手にストレートにものを言わず、本音を隠して、遠回しに伝える京都ならではのコミュニケーション術。訪問先の家で主人に、 「ぶぶ漬けでも、どうどす?」 と聞かれたら、それは「お茶漬け、食べて行きませんか?」との親切なお誘いではなく、「早く帰ってくれよな!」が本意の婉曲表現である、という有名なアレだ。 一説によると京都のいけずは、各地から人が集まり、戦乱がたびたび起きた都で、地元民とそれ以外の人を区別するための知恵だった、とか。争うことを恐れず、言い方も直接的な江戸の武士文化に対し、公家文化を受け継ぐ京都では、体で争う代わりに、やんわりと嫌なことを相手に伝える特殊な言語能力が発達した、とも。 まあとにかく、いけずになじみのない他県人にはどうにも理解しがたく、ゆえにおそろしい。そこから「いけずを操る京都人は腹黒い」「性格に裏表がある」「いじわるだ」などの偏見が生まれ、京都人はすっかり”こわい人たち”に仕立て上げられてしまったのではないだろうか。 京都人はプライドが高い、というまことしやかな噂も「こわさ」につながっている。 京都こそ真の都との自負から新幹線や在来線の東京行きを「上り」ではなく「下り」と呼ぶ、とか。関東から京都に出かけることを「上洛する」とあえて表現する、とか。「京都に三代住まないと、京都人とは認められない」なんてルールも聞く。ニューヨークに住んでいたころ、現地の人に「3年住まないとニューヨーカーって名乗れないよ」と、ちくりと言われたけれど、それどころのスケールじゃない。 でも、真偽のほどをまわりの京都人に聞いてみると、 「そんなこと言う人、いまはおらへん」 「せいぜい一世代上の人たちぐらいまでちゃう?」 との答え。どうやら過ぎ去った昔の話のようである。ほっ。 以前取材でお世話になった京都の前田珈琲社長、前田剛さんも、「ぶぶ漬け」は、もはや都市伝説だと否定していた。 「そもそも、どんなシチュエーションなのかも、ようわからへん」 相手が親戚ならまだしも、たいして親しくもない他人の家にあがりこむのは考えにくいのだと言う。 「なんでかいうたら、昔から京都では銀行屋と呉服屋だけは家にあげてええ、って言 われてんねん」 と、新事実がぽろり。えっ、京都の街にそんな職業ヒエラルキーがあったの? それはそれで、ちょっとこわいような……。京都は闇が、いや、奥が深い。 じゃあほんとのところはどうなの? 京都暮らしは、こわいことだらけなの? もしもそう聞かれたら、私の答えは「ぜーんぜん、こわくないよ」である。生粋の京都人も、よそからの移住者も、みなさんいたって親切。いけずなんてないし(私が気づいてないだけかもしれないけど……)、嫌な思いをした覚えもない。 それよりも京都に対する先入観や決めつけを、知らないうちに溜め込んでいた自分のほうにびっくりした。メディアに取り上げられ、あーだこーだ語られがちな京都は、良くも悪くも「京都ってこうだよね」というステレオタイプを抱かれやすい街なのだなあ。 だから実際に京都で暮らしてみたら、「あれ? そうじゃなかったの?」みたいなポジティブな裏切りや、「へぇ、京都ってこうだったんだ!」という、うれしい発見ばかりだった。 『京都はこわくない』(大和書房)はそんな私が、この街での生活や、ときには京都の人たちへの取材をとおして見知った、”私的ほんとうの京都”をエッセイに綴った一冊である。京都へのさまざまな思いこみが薄れたり、「そんな京都があるんだ!」と驚いてもらえたり、この街にぐっと親しみを感じてもらえたりしたら、すこぶるうれしい。巻末には私の偏愛スポットをまとめた京都ガイドも用意。京都観光のおともにしてもらえたら、それまたありがたい。 すでに京都好きな人は、さらに京都愛が増しますように。なんとなく京都を避けてきた、足が向かなかった人には、京都欲がむくりと芽生えますように。そして、京都人のみなさんには、ほぉ、そういう見かたもあるのね、とお手柔らかに楽しんでもらえますように。そんな願いを込めて。 = 2024年3月 京都市左京区にて。仁平 綾 抜粋記事第2回 「京都はこわい?」NYから京都に移住した私が勧める“全然こわくない京都ひとり旅” 」では、仁平さんが京都に住んで目覚めたというひとり旅とお勧めの旅のプランについてお伝えします。
仁平 綾(エッセイスト)