アフガン女性に日本語教室を開く江藤セデカさん 日本語で照らし続ける母国追われた同胞女性たちの未来
【前編】アフガン女性に無料で日本語教室を開く江藤セデカさん 命懸けの来日と日本人夫との短くも幸福な結婚生活より続く 【写真あり】セデカさんの日本語学校には現在150人ものアフガニスタン女性が登録をしている NPO法人「イーグル・アフガン復興協会」理事長の江藤セデカさん(66)。19歳の頃、母国アフガニスタンの首都・カブールの大学で、後に夫となる日本人留学生の江藤克之さんと出会う。 ’78年のクーデターにより帰国を余儀なくされた克之さんのプロポーズを一度は断ったが、長年の文通の末に決死の覚悟で来日し、結婚。幸福な結婚生活を送っていたが、’89年に33歳の若さにもかかわらず克之さんが白血病で亡くなってしまう。セデカさんは4歳の一人娘と日本に取り残されることになり――。 ■6畳1間のアパートで日本語を独学で猛勉強。「私は絶対に死なないから」 「泣いても主人は戻ってこない。いえ、泣いている暇さえなかった」 そう振り返るセデカさんの大きな瞳が、涙で覆われていく。 克之さん亡きあと、母一人子一人の厳しい現実に向き合わざるをえなかったのだ。 「6畳1間の風呂なしアパートに移りました。月謝がかかる日本語学校はやめて独学に。毎日辞書を開いて猛勉強しつつ、仕事を探しました」 子供を預けながら働ける近所の児童館で、学童保育のアルバイトに就くことができた。 「8時45分から17時までの仕事で、昼休みは家に帰って、洗濯や掃除をしていました」 公園に連れて行くなど、娘との関わりも欠かさなかった。 「父がいない分、母の私がしっかりしなければ。娘には『私は絶対に死なないから』と誓いました」 彼女は当時のことをどのように記憶しているのだろうか。現在、長女(40歳、国際協力団体職員)はアフガニスタン系ドイツ人男性と結婚し、2児の母に。東京在住で、セデカさんとは「スープの冷めない距離」で暮らしている。 「父の記憶はほとんどありません。でも父が亡くなった後、引っ越したアパートがとても小さく、寂しかったのを覚えています。 母はすごく忙しくて一緒に過ごす時間が少なかった。だから高校生になってからは、母の在宅時間に私もいるようにして、二人で過ごせるようにしました」 セデカさんは日本語とペルシャ語が話せる人を求めていた貿易会社に雇用された。さらに裁判所の通訳の仕事も引き受けた。 「当時、イラン人の不法滞在による訴訟も多かったので、ペルシャ語が話せる私は重宝されました。そこで出会うイラン人は、事情を抱える人ばかり。母国では戦禍で家族が苦しんでおり、外国でお金を稼がなければなりません。涙を浮かべて窮状を訴えるのです」 それは“この日本で、自分が誰かの役に立てるんだ”と実感した最初の経験だった。寝る間も惜しんで仕事の準備をしたという。 「日中は貿易会社の仕事。夜から朝にかけて、裁判所からもらった本で専門用語を覚えながら翻訳し、裁判の準備をしていました」 ’93年、貿易会社を辞めて自身の会社「ハリーロード」を立ち上げた。訳せば「絹の道」となる母国を流れる川の名から取った。95年にはペルシャ絨毯を輸入・販売する同名の物産店を都内に開店。 さらに’03年、NPO法人「イーグル・アフガン復興協会」を設立。 会社の設立や協会の運営は、「紛争による混乱で苦しむ同胞を助けたい」というひたむきな思いからだった。食料や衣服が足りない母国の子供たちに物資を送り、日本に逃げてきたアフガニスタン人には通訳や仕事の斡旋、そして学習環境のサポートを……。 セデカさんは愛する人の死に挫けることなく、フル回転で活動してきたのだ。 「紛争が続くアフガニスタンでは国民の多くが困窮していて、なかなか豊かになれません。すべての人が教育を受け、仕事を持てるようにと願ってきました。 空高く舞うイーグル(鷲)は、アフガニスタンでは希望の象徴です。協会が『何も怖れることなく、独立して自由に羽ばたけるように』と祈りを込めて、“イーグル・アフガン”と名付けたのです」