猛牛軍団が消えてから20年…「大阪近鉄バファローズ」はなぜ”完全消滅”を余儀なくされたのか
覚えていますか?20年前の「あの日」
いまから20年前の2004年11月30日、この日をもって、プロ野球の球団「大阪近鉄バファローズ」(以下:近鉄バファローズ)が消滅した。 【写真】す、すけている…全米も絶賛!大谷翔平の妻・真美子さん「衝撃のドレス姿」 前身である「近鉄パールス」の結成が1949年、球団愛称が「バファローズ」となったのは1962年。永らく低迷していたものの、名将・西本幸雄監督のもとでチーム力を上げ、1979年にパ・リーグ初制覇。日本シリーズ制覇は最後まで叶わなかったものの、通算4度のリーグ優勝に輝いている。 球団が消滅する3年前(2001年)にも、北川博敏選手の「9回裏・代打逆転サヨナラ満塁・優勝決定ホームラン」でリーグ優勝。その後も順位は2位、3位、5位と推移し、最終年の2004年まで岩隈久志投手、中村紀洋選手などのトッププレイヤーが在籍していた。決して「弱すぎて消滅」したわけではない。 球団消滅の直接の原因は「極度の不採算状態」にあったとはいえ、赤字続きなのは昔からだ。かつ、親会社「近畿日本鉄道」(以下:近鉄)は、2府3県に総延長500km以上の鉄道網を展開する日本最大の鉄道会社であり、物流・旅行代理店・百貨店などを擁する一大グループとして、球団の赤字を盤石の態勢で補填してきた。 また2000年には「球友寮」(若手選手寮)新築に4億円を拠出しており、この時期までは球団存続の意思があった様子が伺える。 球団消滅から20年が経った今も、ファンの痛みは消えていない。なぜ、「大阪近鉄バファローズ」は、ファンの前から、球界から消え去らなければいけなかったのか。選手やファンだけでなく経営者側の視点にも立ちつつ、4つの理由を再検証してみよう。
消滅のいきさつ
■〈消滅要因(1)〉万年赤字体質 近鉄バファローズの赤字体質の根本原因は、「観戦客の少なさによる低収入」にあった。特に、かつての本拠地である藤井寺球場(跡地は「四天王寺学園」など)は、大阪市の一大ターミナルである梅田・難波ではなく、天王寺から乗り換える「近鉄南大阪線」沿線(大阪市の南隣・藤井寺市)にあり、交通の便が良くなかった。 球場内の設備も、あまり入りたくないトイレや古めいた客席など古色蒼然として、野球ファンでないと「行きたい!」とは思わないようなつくりであった。 選手向けの設備はさらに悲惨で、「ロッカー室が不衛生すぎて蜂窩織炎が流行」「ユニフォームは使い回しでツギハギだらけ」「人工芝の整備がプロのキーパーではなく普通のおじいちゃん」など、もはや一般的な職場環境の体をなしていなかったという。このあたりの“藤井寺伝説”は、球団OBの野球解説者・金村義明氏の証言(通称「野球漫談」)で世間に知られているため、詳細は省こう。 もうひとつの拠点であった「日生球場」(跡地は「もりのみやキューズモール」)はJR大阪環状線・森ノ宮駅前という絶好の立地にあったものの、こちらは収容人数が2万人しかなく、藤井寺球場と同様に老朽化が激しかった。 セ・リーグの読売ジャイアンツ(巨人)が年間350万人の観客を動員している時代に、近鉄バファローズは年間100万人前後。もちろんチケットの売上収入は少なく、近鉄本社の幹部によると、「球団は「近鉄パールス」(創設時)から、ずっと赤字」であったようだ。