脱亜入欧に没頭し西欧を超えられなくなった日本
さらにそれはマルクス主義思想にも乗り移り、一国社会主義によるマルクス主義の発展という近代化のための社会主義議論が生まれ、アジア・アフリカの国々は、資本主義と並んで社会主義的世界史的責務も背負わされたのだ。 確かに19世紀半ばにいた人々は、遅かれ早かれこうした西欧化、世界史化に巻き込まれ、近代化の道を歩まざるをえなかった。福澤諭吉は、それを直感的に理解していたのだ。 しかし、過去の歴史を振り返れば、おごれるものも久しからず、栄華を誇った文明も早晩衰退し、新しいものに変わっていく。西欧人も、19世紀の中であまりにもうまくいっている西欧支配の未来に不安に思ったものも多くいたのだ。
18世紀のモンテスキューの『ローマ帝国盛衰原因論』から、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にいたるまで、こうした書物が読まれたのは、西欧支配の盤石さに対する西欧人の一抹の不安であった。そのなかでも、もっとも典型的なものがO・シュペングラーの『西洋の没落』だ。彼はこう書いているのである。 〈われわれから見れば1500年から1800年にわたって、西ヨーロッパで行われた事件は、「世界史」の重要な三分の一を満たしている。4000年の中国史を回顧して、そこから判断を下す中国の歴史家から見れば、それらの出来事は短い、ほとんど意味のない挿話であって、かの歴史『世界史』において一紀元を画しているところの漢時代(紀元前206年から後260年)ほどにも重要でないのである」(『西洋の没落』第一巻、村松正俊訳、五月書房、102ページ)〉
ヨーロッパを襲った悲惨な第1次世界大戦のすぐ後にこの書物が出たこともあって、難解な内容にもかかわらず飛ぶように売れたのである。 もちろん彼が予測したのと違って、西欧の歴史はアメリカ合衆国という西欧の飛び地によって20世紀の歴史を支配し続ける。民主主義、自由、人権、ハリウッド映画、自動車産業、大きな住宅、いずれも貧しい国が憧れる西欧世界が演出されたのである。 しかしこの背後には、植民地地域への苛斂誅求、独裁政権による支配などがあったことも忘れてはなるまい。いまだにこれらの地域が、西欧文明を福澤諭吉のようにすんなりと受け入れることができていないのは、彼らは西欧諸国の豊かさと人権、民主主義のために、人間としての尊厳を剥奪されていたからである。だから彼らは抵抗したのだ。