King Gnuやきゃりーが支持する特殊メイクアーティスト、KAIHOとは?
King GnuやOfficial髭男dism、きゃりーぱみゅぱみゅ、藤井風など、様々なアーティストから支持を集める特殊メイクアップアーティスト、快歩(KAIHO)。27歳という若さながら従来の特殊メイクアップアーティストの枠を超え、多彩な活躍を見せている。今回、2月15日から18日まで新宿で開催されるクリエイションの祭典「ニューエナジー(NEW ENERGY)」への参加を前に、浅草エリアに構える彼のアトリエを訪問。仕事へのこだわりや独自の世界観を随所に感じる空間で、特殊メイクの魅力やアーティストとしてのこれまでとこれからの歩みについて話を聞いた。 きゃりーぱみゅぱみゅのダンサーが着用した羊のマスク ■快歩(KAIHO) 特殊メイクを軸に、グラフィック、アートディレクション等、独自の世界観を追求した作品制作を行い、その感性を活かして、ミュージックビデオや映画、ライブなど様々なメディアにおいて幅広く活動する。特殊メイクのグロテスクなイメージをあえて制限し、色を効果的に使うことで、ポップかつリアルな独自の世界観を表現している。2020年には、オーストラリアで開催された特殊メイクのコンペティション WBF 2020 World Championships special effects makeupにおいて、世界のTOP3に選出。
妄想を“実在”にできるのが面白い
ーまずは特殊メイクに興味を持ったきっかけを教えてください。 子どもの頃から、「目に見えないもの」や「モンスター」といった空想上のものが好きだったんですが、小学校入学前くらいの頃に親が買ってきた「墓場鬼太郎」の漫画の古本を読んで、すごい衝撃を受けたんです。「墓場鬼太郎」は、水木しげるさんが「ゲゲゲの鬼太郎」を描く前の、もっと好き勝手に描いていた頃の作品で、鬼太郎はタバコもたくさん吸うし、人間を平気で地獄に落とすような全然ヒーローではない存在として描かれているのを見て「なんだこれは!」と。そこから妖怪のことをいろいろ調べるようになって、小中学生の頃にはティム・バートンの映画に出会ったりしながら、そういうジャンルや業界の映画や本をたくさん観たり読んだりしていました。絵を描いたり粘土で何か作ったりするのも好きだったので、そのあたりが始まりだったのかなと。 ー子どもの頃から、普通とはちょっと違ったものに惹かれていたんですね。 そうですね。当時みんなが観ていたポケモンやデジモンは全然観てなかったですね。みんなが小学校でDSをやってても、自分は「絶対やらねぇ」と思って妖怪の本を読んだりしていました(笑)。 ーそこから、なぜ特殊メイクを仕事にしようと? 高校はデザイン科に進学したのですが、卒業後の進路を考える時に、当時特殊メイクを使った映画を観まくっていたので、「こんなことができるんだ」とその技術を知って面白いなと思って。それで名古屋から東京に出てきて、私の師匠的な存在のAmazing JIROさんという方がやっている特殊メイクの学校「amazing school jur」に入りました。実際に学校に入ってやってみたら、それまでは平面や粘土で作るだけの、自分の妄想の中だけの表現だったものが、特殊メイクをすることによって本当に実在させることができる、 想像したものをそのまま作れてしまう技術がものすごく面白いと感じました。学校に入った当初は、「なんか面白そう」という軽い気持ちだったのが、「これは続けていったらもっと面白いことになるかもしれない」と感じて、特殊メイクを仕事にできたらいいなと思い始めました。 ー専門学校卒業後は、どのような仕事をされていたんですか? 学校卒業後は、基本的にはみんなフリーランスとしていろんなアトリエのプロジェクトに参加する形で、あるアトリエが携わっている映画の現場に入って、そのプロジェクトが終わったらまた別の現場に入って、といった働き方をします。僕も最初はそういう形で仕事をしていて、 初めて入った現場が「こどもつかい」(監督:清水崇/2017年公開)という滝沢秀明さんが主演のホラー映画でした。その当時19歳だったんですが、初仕事で自分がメインでメイクしたのがタッキーで。 ー初仕事で滝沢さんの特殊メイクを担当できたのはすごいですね。 でも、映画の特殊メイクは指示通りの内容を忠実に再現しなくてはなりません。その時に、僕は決められた「正解」を作るような仕事が向いていないと感じて。やっぱり自分のデザインでやっていきたいという思いが強くなって、クライアントワークではない方向に舵を切りました。 ー思い切った決断ですね。その頃はどのように過ごされていたんですか? 最初は全然仕事がなくて。ツイッターで見てくれた人が声を掛けてくれた自主映画の仕事をしたりしながら、並行して生活費を稼ぐためにバイトをしてました。でも、バイトしながら来た仕事をやっているだけだと自分のやりたいことができないので、空いた時間で自分の作品をひたすら作って、バイト代が全部材料に消えていくみたいな感じの生活で。その時は4畳半の家に住んでいて、作業場もないのでお風呂の浴槽の上に板を貼って、そこで作業してましたね。 ーちなみに、バイトは何をやられてたんでしょうか? 工場の屋根を運んだり、夜中に豊洲集合で10人乗りのハイエースに乗せられて、到着したらそこで地下鉄を作っていて、地下鉄の線路を担いで地下に潜っていくみたいなバイトもやったりしていて、それは結構辛かったですね。「カイジ」みたいだなって思ったりして(笑)。朝は組み立て配送のバイトをしていて、トラックの助手席に乗って駐禁切られないように座っていたり、荷台で椅子を組み立てたりしていました。その当時は、自分がそういうことをやっているというのを誰にもバレたくなくて、普段は被らない帽子を被って、隠れながらやってました。