仏教のキーワードから「ことば」を覗いてみると…「阿頼耶識」が教えてくれる「今を生き抜くヒント」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
「言葉」とは何か
言葉は社会のなかで制度化されたものであり、固定した枠組みとして機能する(たとえば一つ一つの単語が意味する領域はそれぞれの言語で決まっている)。私たちの経験はその枠組みのなかにはめ込まれて理解されていく。それが世界の眺め・見え方としての世界観を作りだす。しかし言葉は他方で、そのような固定化した枠組みを打ち破って、事柄そのものに迫ろうとする。その言葉の創造的な力にもさまざまな仕方で目が向けられてきた。 たとえば先に名前を挙げた上田閑照は『ことばの実存──禅と文学』に収められた「ことば──その「虚」の力」のなかで、言葉が有する「「虚」の力」に注目している。 通常は私たちは言葉によって実際に起こっていることを、論理的に矛盾がない形で表現する。そのような意味で言葉は通常は「実」的な性格をもっている。しかし私たちには、単なる言いまちがいということではなく、むしろ積極的に「実際にはありえないことや論理的に矛盾したことなど不可能な「こと」」を言うことがある。たとえば詩のなかで私たちは現実にはありえないことを言い表すことがある。しかしそれは単なる虚事、絵空事を表現したのではない。そこでは、「感覚の「我」による制限がはずされて、感覚が限りないところへと延びる」ことによってつかまれた「こと」が表現されている。そのような「虚」の表現を通して、私たちは既成の言葉の枠組みではとらえることのできない「こと」そのものに迫ろうと試みる。 言葉は一方では、世界を理解するための固定した枠組みであるが、しかしそれにとどまらず、その枠組みではとらえられないものを言い表す力をもつ。そうした言葉のはたらきに注目したものとして、この上田の言語論は興味深い。 先ほども言ったように、言葉は一面では、たとえば日本語なら日本語として、つまり日本語独自の語彙と文法をもつ言語として、長い歴史のなかで制度化されたものであり、固定した枠組みとして私たちの意思伝達や思考を規制する。言葉とは慣習的な意味を担う慣習的な記号のシステムであると言ってもよい。