仏教のキーワードから「ことば」を覗いてみると…「阿頼耶識」が教えてくれる「今を生き抜くヒント」
阿頼耶識というヒント
井筒俊彦は、言葉をそのような表層の「憔悴した意味のシステム」としてではなく、その深層に目を向け、むしろ可塑的で力動的なものとして把握することを試みている。その際に井筒が手がかりにしたのが、大乗仏教の代表的な学派の一つである唯識で問題にされた阿頼耶識であった。 仏教では多くの場合、人間の知るはたらき、意識、あるいは心のはたらきを六つ(眼、耳、鼻、舌、身、意)に区別する。唯識ではそれらの根底にさらに末那識(根源的な自我執着意識とも言うべきもの)と阿頼耶識とを考える。唯識によれば、人間の経験はすべて意識の深みに影を落として消えていく。つまり痕跡を残していく。痕跡は直ちに、あるいは時間をかけて集積し、「種子」に変わっていく。そして種子から芽が出るように、この「種子」からさまざまな存在ないし存在表象が生まれていく。このさまざまな存在の因である「種子」が貯蔵される場所が阿頼耶識である(阿頼耶識はその意味を込めて「蔵識」とも漢訳された)。 井筒は『意味の深みへ──東洋哲学の水位』に収められた論文「文化と言語アラヤ識──異文化間対話の可能性をめぐって」のなかで、この阿頼耶識の概念をその言語理論のなかに取り入れることによって(「言語理論的方向に引きのばして」)「言語アラヤ識」なるものを考えた。それは、井筒によれば、社会制度として定着した言語のなかにまだ組み込まれていない「潜在的意味」としての言葉の貯蔵場所である。まだ分節されていない、まだ明確な意味を担うにいたっていない「意味可能体」が生まれてくる意識下の領域である。そこでは無数の「意味可能体」が、意識の表層の明るみのなかに出ようとして、互いに絡み合い、相戯れている。「外部言語」とも言うべき慣習的な記号のシステムは、このような「創造的エネルギーにみちた意味マンダラの溌剌たる動き」に支えられて成り立っている。この潜在的な意味は条件が整えばやがて顕在的な意味として意識の表層に浮かびあがっていく。そしてそこでなされる経験の痕跡がふたたびアラヤ識に集積し、新しい「種子」を作りだす。このように言葉を、単にその表層構造においてだけでなく、同時にアラヤ識における「深層言語」までをも含む流動する全体構造において把握しようとした点に、言いかえれば、その力動性に注目した点に井筒の言語理解の特徴がある。 以上で見たように、日本においても言葉をめぐってさまざまな議論がなされてきた。たとえば経験との関わりをめぐって、言葉がもつ創造的な力をめぐって、その表層と深層の構造をめぐって、さらには日本語による独自な思想表現の可能性をめぐって議論が積み重ねられてきた。それらは今後、言葉をめぐってさらに豊かな思索が生みだされていく可能性を示唆しているように思われる。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝