里中満智子「漫画は歴史や人間社会を学ぶための最高のバイブル。20代の頃は『アリエスの乙女たち』など連載8本を抱え、月700ページ描いて」
『アリエスの乙女たち』『あした輝く』『天上の虹』など500を超える作品を発表し、長年にわたり多くの読者に支持されてきた里中満智子さん。近年は国内外で漫画家の権利を守る活動や後進の育成にも尽力しています。その源にあるのは、幼き頃から変わらぬ決心でした。(構成:丸山あかね 撮影:大河内 禎) 【漫画】『あした輝く』(『週刊少女フレンド』1972年~) * * * * * * * ◆30分寝てしまうと間に合わない 私は高校2年生の16歳で漫画家としてデビューしたので、今年で画業60年。振り返ると、若い頃はよくもまあ、あんなに馬力があったな、と思います。 一番忙しかったのは20代、連載を8本も抱えて、毎日が締め切りでね。私はセリフの組み立てに一番時間がかかるんです。それが終わったら、絵を描くのは体力勝負。2晩徹夜して仕上げるという強行軍でした。 寝ずに仕事をしていると、「もう限界だ」となる瞬間は何度も訪れるのですが、ここでうっかり30分寝てしまうと締め切りに間に合わない。同じ雑誌で連載しているほかの先生方に迷惑をかけないようにと必死でしたね。 当時、手塚治虫先生の会社で発行していた『COM』という漫画雑誌がありました。その中で、漫画家の「総原稿枚数ベスト10」が毎月発表されるんです。たいてい、石ノ森章太郎先生か水島新司先生が1位。 でも、ベスト10に私の名前はない。枚数を見ると、私のほうが描いているのに! 漫画界も男中心で、少女漫画なんて端から計算に入らない、そういう時代でした。 編集者が調べたところでは、私は月に700ページも描いていたとか。若さってすごいですね。76歳になり、体力がガクンと落ちた今では考えられません。
◆大好きな漫画を馬鹿にされて 私は、1948年1月生まれ。ベビーブームの第一世代です。高校に入るのも大学に入るのも就職するのも「狭き門」だと、競争をあおられていました。 漫画と出会ったのは物心つく前のこと。母が買ってくれた本の中にキツネを主人公にした漫画があり、私はセリフを覚えて妹に読み聞かせのように語っていたそうです。小学校に入る頃には、書店で手に取った雑誌の中に、手塚先生の『とんから谷物語』を見つけ、絵の美しさと物語の面白さに惹かれました。 そこから、手塚先生だけでなく、ちばてつや先生、石ノ森先生などの作品を探すようになります。活字も好きだったので、学校の図書館で少年少女世界名作文学全集やギリシア神話、図鑑を読んでいました。今も、少しの時間があれば読書に勤しむほどの、本の虫です。 やがて貸本屋さんに通うようになり、お年玉やお小遣いでせっせと漫画本や雑誌を借りたり買ったり。自分の本棚に大好きな漫画本を並べ、毎日眺めていました。わたなべまさこ先生、水野英子先生といった少女漫画の大先輩の作品に親しんだのもその頃です。 ところが時代は「悪書」追放運動が盛んな頃。漫画なんて読んでいたらロクな人間にならないと、大人たちから言われていました。私の大好きな『鉄腕アトム』も、「ロボットが感情を持つなんて非科学的だ」と馬鹿にされてね。 私の母も理解してくれませんでした。しまいにはテストで1問間違えるごとに、漫画を1冊捨てると宣言されましたよ。