1878年、日本にやってきたイギリス人が、「横浜の街」を見てもらした「意外な感想」
横浜の印象
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。 世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えたという人も多いかもしれません。 【写真】イザベラ・バードは、こんな顔をしていた…! 日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『イザベラ・バードの日本紀行』という本です。 イザベラ・バードは、1831年生まれのイギリス人。オーストラリアや朝鮮などさまざまな国を旅し、旅行作家となりました。 彼女は1878年、47歳のときに日本を訪れています。北海道をはじめ、いくつかの土地を旅しますが、その様子をあざやかにつづったのが、この『イザベラ・バードの日本紀行』なのです。 19世紀の後半、日本はどのような姿をしていたのか、それはイギリスという「文明国」「先進国」からやってきた女性の目にはどのように映ったのか、そこからは、明治日本とイギリスのどのような関係が見えるのか……本書はさまざまなことをおしえてくれます。 たとえば、船で日本に着いたばかりのバードが、横浜を見てもらした感想は、少し意表をつくものがあります。同書より引用します(読みやすさのため、一部、改行を編集しています)。 〈灯台船の近くには横浜港のきれいな湾があるものの、数え切れない漁船の白帆が点在する江戸湾の淡いブルーの海は北へ二〇マイル[約三二キロ]つづき、そこに江戸すなわち東京の町があります。横浜山手は左手ではふいに海に没し、右手では内陸の山間に溶け込んで消えていく低い山々の連なりで、大小さまざまな平屋に覆われています。 旗竿のついた建物はイギリス、ドイツ、アメリカの海軍病院で、石積みの堤防に沿って長く伸びた不規則な形の海岸街とともに、こういったものが真っ先に目にとまります。山手の下にはおもに外国人の居留地があり、ついで日本人街の低い灰色の家屋と単調な灰色の屋根が広い平地に広がっています。 横浜はどのようにも印象的ではありませんでした。このような混成の都市は少しも心に残りなどしません。山手はボストン郊外、海岸街はバーケンヘッド郊外に亜熱帯の幻想を足したようなもので、みすぼらしくて印象に訴えない日本人街が表しているのは勤勉さに欠ける貧困にほかなりません。 海岸街に沿ってあるのは、グランド・ホテル、インターナショナル・ホテル、クラブハウス、ジャーディン・マセソン社の建物を一番館とする数軒の「行」すなわち商館です。これらすべてが花や草木のある緑地に建っており、建物と海のあいだには広い馬車道があります。〉 〈それから目立って醜いイギリス領事館、ハワイ諸島で集めた寄付金で一部建てられた少々醜いユニオン・チャーチ、見苦しさではたいしてひけをとらないほかの建物数軒、日本の郵便局、税関、裁判所があります。郵便局、税関、裁判所は外国人建築家が基本的に洋式で建てたもので新しく、倉庫群のようにみすぼらしい建物の集まりに見えます〉 意外にも、イギリスやアメリカが西洋風の建築物をつくったエリアは、彼女の目にはネガティブに映ったようです。バードが日本に期待していたものがなんだったのか、それは「西洋とは違うなにか」だったのではないか、と想像をふくらませてくれる一節です。 * 【つづき】「「日本はロシアの属国」「日本には奴隷制がある」…19世紀のイギリス人が、日本に抱いていた「驚きのイメージ」」の記事でも、バードによる報告をくわしくご紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部