【動画】5分でわかる 自民党「派閥」の歴史 “田中支配”から清和会の隆盛まで
THE PAGE
総裁選や組閣の際に注目を集める自民党の派閥。「55年体制」をはじめ、戦後の長い期間で与党であり続けた自民党の総裁選びは首相に直結し、総裁選に向けた派閥間の攻防が繰り広げられてきた。隆盛と退潮を経て今に続く自民党の派閥の歴史を振り返る。(敬称略) 【年表】安倍政権「7年8か月」を振り返る アベノミクスから安保法制、コロナ禍まで
(1)「吉田vs.鳩山」と自民党結党
1955(昭和30)年11月、吉田茂が直前まで率いた自由党と鳩山一郎の日本民主党が「保守合同」し自由民主党が誕生。その後、総裁選をめぐって「8個師団」と呼ばれる8つの派閥が形成されていった。 旧自由党系 ・佐藤栄作 ・池田勇人 ・大野伴睦 ・石井光次郎 旧日本民主党系 ・岸信介 ・河野一郎 ・三木武夫・松村謙三 ・石橋湛山
(2)5大派閥「三角大福中」
1960年代から70年代にかけて「三角大福中」と呼ばれる5大派閥に収れんしていった。5人の派閥の領袖の名前から1文字ずつとったネーミングだ。 ・「三」木武夫 ・田中「角」栄 ・「大」平正芳 ・「福」田赳夫 ・「中」曽根康弘 派閥の領袖が総理総裁の座をかけてしのぎを削った時代で、5人は80年代までにみな総理まで上り詰めた。 特に佐藤栄作首相の後継をめぐって争った田中角栄と福田赳夫の「角福戦争」は苛烈を極めた。
(3)田中支配・竹下派の隆盛と分裂
1970年代から90年代にかけて隆盛を誇ったのが「田中派」「竹下派」。吉田茂の系譜である佐藤栄作派(周山会)の流れを汲み、「鉄の結束」を誇った田中角栄派(木曜クラブ)、そこから独立する形で旗揚げされた竹下登派(経世会」へと続いた。田中角栄はロッキード事件で離党した後も総裁選びに隠然たる影響力を及ぼした。 竹下派はあとを継いだ小渕恵三派も含めて、竹下登、小渕恵三、橋本龍太郎の3人の首相を輩出した。 1992(平成4)年に実力者の小沢一郎や羽田孜らが竹下派を離脱し羽田派を旗揚げ。翌93年には自民党を離党し新生党を結成し、その後の非自民連立政権の誕生につながった。 竹下派の分裂後、小渕派時代に「平成政治研究会」(後に平成研究会)と改称し、再出発した。 中曽根康弘首相の後継をめぐっては「安竹宮」と呼ばれた3人のニューリーダー、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一が争った。