日本海軍が事実上壊滅した太平洋戦争マリアナ沖海戦から80年 現代に残した教訓は
80年前、1944年6月19、20の両日、日米両軍によるマリアナ沖海戦が行われた。日本海軍の空母機動部隊は、この戦いで事実上壊滅した。日本海軍は1941年12月に行われた真珠湾攻撃に劣らない大兵力を集中したが、米軍に歯が立たなかった。防衛研究所戦史研究センターの進藤裕之国際紛争史研究室長は、日本海軍が敗れた理由について「新しい戦争の様相を見通す力に欠けていた」と指摘した。(牧野愛博=朝日新聞外交専門記者) 【記録写真】米軍の攻撃をかわして航行する日本海軍の空母「瑞鶴」
――米軍はなぜ、マリアナ諸島のサイパン島攻略を考えたのですか。 そもそも、米軍は太平洋のマーシャル諸島からカロリン諸島へ西進し、フィリピンまたは台湾を目指す考えでした。サイパン島などからなるマリアナ諸島は西進ルートの北に位置するため、米太平洋艦隊内部では「無視して良いのではないか」という声がありました。しかし、キング米艦隊司令官が「マリアナを攻略すれば、日本の南北の交通線を遮断できる。日本本土や沖縄、台湾、中国本土などへの攻略にも使える」と主張し、攻略が決まりました。 ――マリアナ沖海戦で、日本海軍は甚大な打撃を受けました。 日本はマリアナ沖海戦に、翔鶴や瑞鶴、大鳳などの空母9隻と艦載機430機を投入しました。これは、真珠湾攻撃に参加した大型空母6隻と艦載機423機を上回る規模でした。しかし、数はほぼ同じでも、実力は雲泥の差がありました。最終的に、翔鶴、大鳳など空母3隻が沈没し、艦載機は次々に撃墜、あるいは事故などで失われ、21日に稼働可能な艦載機は、わずか35機でした。 日本海軍は同年10月のレイテ沖海戦に空母4隻を投入しますが、艦載機はわずか109機しかなく、おとり部隊として使わざるを得ない状態に追い込まれました。マリアナ沖海戦は、日本海軍の母艦航空隊が事実上壊滅した戦いと言えます。
――なぜ、これほど手ひどい損害を被ったのでしょうか。 まず、日本軍パイロットの経験と訓練不足がありました。真珠湾攻撃当時は、飛行時間が数千時間単位に上るパイロットも珍しくありませんでしたが、マリアナ沖海戦に参加した多くの搭乗員の場合、数百時間程度でした。飛行機を飛ばすのに精いっぱいで、射撃、爆弾や航空魚雷の命中精度が落ちました。 ベテランぞろいの時代には、敵艦隊上空に進入してすぐに攻撃に移れましたが、マリアナ沖海戦当時は、攻撃開始直前に、隊長機が15分くらい空中で旋回しながら、隊員機に攻撃する場所などを無線で指示しなければなりませんでした。米艦隊はこの指示を傍受し、迎撃態勢を整えました。 次に米軍は、従来のグラマンF4Fワイルドキャットに代わり、F6Fヘルキャットなど新しい戦闘機を投入しました。速度や上昇、旋回などすべての能力が向上していました。 これに対し、日本は技術陣の層が薄く、数少ないスタッフで複数の新型機の設計や実用中の航空機の改良を担当していたため、新型戦闘機の開発が遅れていました。このため、日本軍は真珠湾攻撃当時と同じ、ゼロ戦を主力として使っていました。 それでも、熟練パイロットであれば、ゼロ戦でも空戦に耐えられました。米軍はパイロットに「ゼロ戦とは格闘戦に持ち込まず、一度攻撃したら、すぐに離脱しろ」と指示していました。 しかし、練度が落ちる日本軍パイロットは、周囲を見張る能力が劣り、遠くの敵をいち早く発見できず、奇襲を許しました。熟練パイロットは、敵機を攻撃する直前に背後を必ず確認します。攻撃に夢中になる瞬間が一番危ないからです。しかし、経験不足の日本軍パイロットはこれができず、次々に撃墜されました。 米軍では当時、「マリアナの七面鳥撃ち」と言われたほど、1日に5、6機の日本軍機を撃墜して「1日で撃墜王になるパイロット(Ace in a day)」も生まれました。 また、米軍ではレーダーの性能向上や、直接命中しなくても近くで爆発して破片で破壊する近接信管の登場、管制官がレーダーや無線を傍受した情報などを総合して、最適な迎撃態勢を指示する戦術などもみられました。