81歳が握るおにぎりは1日300から500個…都内で50年続くおむすび屋の看板娘「休みはいらない」の深いワケ
■内向的な性格で、中学校卒業後は祖父の米屋を手伝う 中学生になった頃には、母親の体調も回復し、朝ごはん作りはなくなったが、中学生の弘子さんの楽しみは部屋の中にあった。 「私は人とお話をするのが嫌いで、部屋の中に一人でいて、細かいことをするのが好きだったの。編み物が好きでねー」 弘子さんは内向的で、ひっそりとした時間を好んだ。それが、楽しかったからだ。編み物や手芸など細かい手作業に没頭することこそ、喜びだった。周りに流されず、自分の「好き」を貫く、きっぱりとした少女の姿がある。 中学卒業後は、祖父の跡を継いだ父が営んでいた、家業の米屋を手伝うことにした。ここでも、きっぱりしているのだ。 「姉さんは外に勤めに出たんだけれど、私はそれが嫌で、うちに入ったの。だから、私はほとんど外に出ていないのですよ。ずっと、家の手伝いをしていた。やっぱり、仕事をするのが好きだったから」 「働く手」は、動きを止めない。働くことが、喜びだから。ただし、米屋の仕事は嫌いだった。 「当時の米屋は、俵(たわら)で米が入ってくるの。俵を解くと、まだ籾殻(もみがら)がついているもんだから、叩いて白米にするの。父と一緒に、叩いてね。米を叩くから、埃(ほこり)になるわけですよ。糠(ぬか)は、うちの中にまで入ってくる。糠や藁(わら)の埃が家中に舞ってね。だから、絶対に、お米屋さんには嫁に行くまいと思ったの」 なんと! それなのに、まさかの生涯“米屋・現役”ではないか。 ■革ジャンを着てバイクで店に乗り付けた4つ年上の青年と結婚 「米屋だけは嫌」という少女の決意を簡単に翻させたのが、夫となる男性の出現だった。 「主人は米の問屋に勤めていたので、うちはお客さんだから、しょっちゅう、うちに出入りしていたの。それで知り合って、父親も主人のことをすごく気に入って、それで結婚したの」 大人しく、人と話すことが嫌いな内向的な少女は、革ジャンを着てバイクで店に乗り付ける、4つ上の青年に間違いなく恋をした。この人と一緒なら、どんな人生でも構わないと思ったのだろうか。まさに一心同体のような夫婦を生涯、生きることになるのだ。 結婚したのは22歳、1年後に娘を出産した。二人目の子が生まれた時に、実家の米屋の支店という形で、少し離れた場所に家を建て、夫と二人で米屋を開業した。さらに、次男の健太さんも生まれ、弘子さんは3人の子の母となった。 「最初の5年は、米屋だけをやっていたの。だけど、主人が米屋だけでは先行きが大変だから、米を使って、おにぎりを売ろうと発案したの」