戦いの勝者示す重要度「大坂城戦史」展で歴史をひも解く
古戦場を巡り太平の世の意義を再点検する武士たち
──将軍にとって大坂城はどんな存在だったのか。 宮本:「家茂が第2次長州戦争を指揮するため、大坂城に入城したとき、大坂の陣からちょうど250年の節目だった。大坂の陣では、家康や秀忠が全国の諸大名に動員をかけ、大軍を率いて大坂城を攻め立てた。それから250年後、家茂は采配をふるうため、自身が大坂城に入った。しかし、諸藩の軍勢の動きは鈍く、むしろ徳川の威信低下が浮き彫りになってしまう。それでも家茂は城内の櫓(やぐら)を巡回し士気を鼓舞し、大坂の陣で徳川軍が進軍してきた南の方向に向かい、先祖たちの戦いに思いをはせていた」 ──展覧会で見逃せない展示は。 宮本:「たとえば高麗橋擬宝珠(ぎぼし)。城の西側を流れる東横堀川にかかる高麗橋の橋かざりで、大坂の陣後、徳川軍が戦勝記念に持ち帰ったものだ。徳川勢が防御線を破って高麗橋から大坂城へ突入することができたため、勝利の証拠の品にふさわしいと考えられたのだろう。長い時を経て大阪に戻ることができた」 ──江戸期の大坂は商いのまちになったが、武士たちは大坂をどのように見ていたのか。 宮本「大坂へ転勤してきた武士たちは、大坂の陣の戦死者を慰霊する社寺や古戦場の史跡を訪ねることが多かった。大坂は戦いで命を落とした多くの先祖たちの遺産のうえに、太平の世が築かれていることを、改めて点検する場所だった」 落城は悲劇ではあるが、落城の炎は、時代の変わり目に発生する鮮烈な火花かもしれない。大坂は地政学的な重要度が高かったが故に、繰り返し炎上するほど、奪い合いになった。そして新たな歴史が刻まれていく。大阪再生の道を探るヒントのひとつになるのではないだろうか。 展覧会は今月23日まで。午前9時~午後5時(入館は午後4時30分前まで)、入館料600円(中学生以下無料)。詳しくは大阪城天守閣の公式サイトで。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)