戦いの勝者示す重要度「大坂城戦史」展で歴史をひも解く
徳川幕府も明治新政府も大坂で外交活動を展開
──幕末維新の激動期、大坂の印象はやや薄いが、大坂では何が起きていたのか。 宮本:「政局の混迷が深まり、幕府が朝廷を討幕派に絡め取られないようにするためには、将軍自身が京に入らなければいけない。14代将軍家茂は京に長く留まり、第2次長州戦争に際しては、大坂城に入城して采配(さいはい)をふるった。家茂が亡くなったのも、大坂城内だった」 「家茂に続く最後の将軍慶喜は京都で将軍に就任し、将軍職の間は江戸に一度も戻っていない。将軍時代を通じて京と大坂を行き来しながら、幕府の新たな活路を模索していた」 ──幕末の将軍たちが京や大坂に居続けていたことは、あまり知られていない。 宮本:「少し前に江戸城の本丸御殿が火災で焼失したこともあり、政治の舞台は京、大坂に移っていた。幕府にとって、京は朝廷との交渉の場、大坂は外交の場だった。外国の政府要人を京へ入れてしまったら、公家や討幕派が接触を図り、何かと面倒なことになりかねない。そこで、将軍が大坂城に陣取り、大坂で外交活動を展開した」 「1867年8月発行のイギリスの週刊新聞『絵入りロンドンニュース』に、大坂城で慶喜がパークス・イギリス公使と会見した模様が報じられている。慶喜は良好な外交関係構築のために、自ら主導すると約束。対面した公使たちは、慶喜の堂々たる振る舞いに感銘を受けた」 ──一方の新政府側は、大阪をどうとらえていたのか。 宮本:「新政府への移行期、今度は明治天皇が大阪で外国の要人と会っている。新政府にとって、諸外国に認められることが重要だったが、日本が初めて国際社会で認められた舞台は大阪だった」 「それまで朝廷は政治の表舞台に出ることは少なかったが、近代国家建設のためには強いリーダーが欠かせない。まだ若かった明治天皇が大久保らからの要請を受け、精力的に活動した。東日本で新政府軍と旧幕府軍の戦いが続いている最中だったが、それだけ大阪という場所は意味のある場所だった」 「大久保らは、思い付きで大阪に都を移そうと考えたわけではない。江戸でなくても、大阪で日本の政治を動かせるということを、いわば幕府側の家茂や慶喜が実証していた。大阪は海外との接点である長崎に近く、江戸と長崎の中間に位置するため、外交交渉に適した場所と認識していた」