父の狂死、妹との近親相姦的関係…クリムトと同時代を生きた画家、エゴン・シーレの過激な半生
スキャンダラスな生活の果てに
シーレがクリムトに接近したのは、アカデミーの授業に早々と幻滅してのことだ。学生はアカデミー外で作品展示をしてはならない、と禁止されているにもかかわらず、小規模ながら個展を開き、また1909年にはクリムト・グループの大展覧会である「第二回クンストシャウ」にも四作を出品した。 残念ながらそれらの作品が話題になることはなかったが、同時に展示されたゴッホ、ムンク、ゴーギャン、マティスなど国外の新しい潮流にシーレは大いに刺激を受け、このままでいいのかと自作を問う良いきっかけになった。クリムトがマカルト様式から脱却したように、シーレもまたクリムト作品から抜け出ようともがき始めたのだ。 この年、アカデミーを中退している。もうここで学ぶことは何もない。クリムト作品からも離れねばならない。それはできる。だがクリムト本人から離れるのはさらに二年近くかかった。クリムトの包容力によるものであろう。とはいえ、学校で孤立したように、クリムト・グループとの交流も居心地は悪かった。若すぎたせいもあるし、またきちんと古典美術を学んでいなかったため、彼らの芸術論に全くついてゆけないのだ。疎外感は募り、二十一歳を迎えた時、彼はとうとうウィーンを去った。 一人でではない。クリムトのモデルだったヴァリ・ノイツェルとすでに恋人関係になっていたから、彼女を伴い、母の故郷クルマウ(現在はチェコだが、当時はオーストリア=ハンガリー帝国)に移住した。ところがわずか三か月後には石もて追われるごとく追放されるのだから、田舎の人々にとって彼らの日常の暮らしはよほど不品行に見えたのだろう。 仕方なく二人はウィーン郊外のノイレングバッハに移る。ここはシーレの叔父の別荘がある町だった。どこへ移ろうとシーレは等身大の大鏡を持ち運び、それに自分を映して飽きることはなかった。自画像を描くばかりでなく、カメラでも己の姿を多数撮っており、まさにナルシシズム全開である。オールヌードはもちろん、自慰行為すら描く露悪趣味もまた、自己愛の裏返しなのだから。 ヴァリのヌードも多数描いたが、彼のアトリエはなぜか地元の少女たちの溜まり場になった。自然にそうなるはずもないのだから、もしかするとヴァリが声をかけ、少女たちにわずかなお小遣いでヌードモデルをさせたのではないか。画面の彼女たちは彼の自画像同様、肉が削がれ、輪郭は尖り、壊れた人形みたいにぎくしゃくし、性器を露出し、異様なエロティシズムを醸し出している。シーレは生活のためにそれらをポルノ画として売りさばいていたのだろうか。そうだとしてもあまり驚かない。 シーレの少女ヌードの過激さを見ると、クリムトの女性美がいっそう際立つ。彼はそもそも少女を裸にはしなかった。成熟した女性の得も言われぬ曲線や、なめらかでやわらかな肌を理想化した。男である自分とは全く違う不思議な美しい生きものとしての女性を愛した。『ヌーダ・ヴェリタス』のような女性ヌードは、自分に溺れた男には決して描けないだろう。 さて、少女たちの溜まり場だったシーレのアトリエに、ある日、13歳の家出娘がころがりこんで来た。シーレの言い分によれば、祖母のもとへ送ろうとしていた矢先だというのだが、結局その子の父親が訴えて警察沙汰になってしまう。裁判が開かれ、「誘拐」「淫行」「猥褻」の罪が争われたが、前者二件は無罪、猥褻物陳列罪では有罪になり、シーレは三週間以上も拘留された。 警察がアトリエにある作品の多くを猥褻物として燃やした時には、芸術家としての誇りは大いに傷つけられたかもしれないが、シーレのこのスキャンダル自体は、大いなる性の都ウィーンではさしたる問題にならなかった。 出所後シーレはウィーンにもどる。長男気質のクリムトは彼にパトロンを紹介し、優しさを見せている。クリムトにとってシーレは、どこか放っておけない可愛げがあったのに違いない。 中野京子(なかの・きょうこ) 北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。2017年「怖い絵展」特別監修者。西洋の歴史や芸術に関する広範な知識をもとに、絵画エッセイや歴史解説書を多数発表。著書に『名画の謎』『運命の絵』シリーズ(文藝春秋)、『そして、すべては迷宮へ』(文春文庫)、『怖い絵』シリーズ(角川文庫)、『名画と建造物』(KADOKAWA)、『愛の絵』(PHP新書)、『名画で読み解く 12の物語』シリーズ(光文社新書)、『災厄の絵画史』(日経プレミアシリーズ)、『名画の中で働く人々』(集英社)など多数。
中野京子