京都市営地下鉄“ナゾの終着駅”「国際会館」には何がある?
100年ほど前、この町に“あの鉄道”がやってきた
明治初期に町村制が施行されたときには、一帯は岩倉村と称する。1928年に叡山電車(当時は鞍馬電気鉄道)が開通し、京都の市街地へのアクセス手段が確立される。 この頃には路線バスの運行も始まって、京都市内との結び付きが一層強まってゆく。そして、1929年に同志社高等商業部が京都市内から岩倉村内に移転。これが現在の文教地区への第一歩であった。 戦後は京都市内との間で人の行き来もますます盛んになり、そうして1949年、岩倉村は京都市と合併、京都市左京区に編入された。現在のような住宅地・文教地区としての形が完成したのは、1960年代以降のことだ。
盆地南部に広がっていた湿地帯が埋め立てられて国立京都国際会館が誕生、区画整理事業も進み、少しずつ住宅地へと生まれ変わる。この頃から、長くこの地域を象徴していた田畑は消えていった。1997年に地下鉄烏丸線の国際会館駅が開業すると、京都駅をはじめとする中心市街地へのアクセス利便性がさらに向上し、存在感を高めている。 いまでもほぼ全域で高層マンションの建設に制限があるなど、地域としての価値を維持する取り組みは続けられている。京都郊外の文教地区・高級住宅地、そこに昔からの田畑が点在するというこの町の本質は、交通利便性の向上とは裏腹に、今後も保たれていくことになるのだろう。
激混みしがちな国際的観光都市の“静謐な世界”
最初にこの町を歩いて、国際会館駅から岩倉駅まで15分ほどかかったとき、どうせならば地下鉄が延伸すればいいじゃないかと思ったものだ。そうすれば、京都の中心部(というか京都駅)から岩倉地区はもとより鞍馬寺などへのアクセスがもっと便利になることはまちがいない。 しかし、改めてこうして歴史を振り返れば、かえって地下鉄が国際会館止まりなのは悪くないのかもしれない。静謐な住宅地・文教地区が保たれているのは、歴史の古い叡山電車を除くとその周囲を鉄道駅が取り囲むだけにとどまり、決して直接内部を荒らしていないことが関係しているのではないかと思うのである。 国際会館駅から目の前の宝ヶ池通を東に歩くと、こちらでも叡山電車の線路とぶつかる。ここから白川通を南に折れて進んでいけば、叡山電車が鞍馬方面と比叡山方面に分かれる分岐駅、宝ヶ池駅にも近い。 白川通は岩倉地区と京都の中心市街地を直結する主要道路のひとつで、北山通や北大路とぶつかりつつずっと南に行けば、天下一品の総本店。さらにずーっと南進すると、平安神宮の東側を抜けて南禅寺まで続いてゆく。 こうした道のりをバスで向かうのもいいけれど、京都の町は平坦で坂道が少ない。自転車でも借りて、町をうろうろするのも悪くない。その出発点として、地下鉄の終点・国際会館駅を選んでみてはいかがだろうか。名だたる観光地の過度とも言える賑わいとは離れ、そこには静謐な世界が広がっている。 写真=鼠入昌史
鼠入 昌史