警戒区域解除「線量管理は自己責任」 全町避難の富岡町ルポ(上)
東日本大震災と福島第1原発事故から3年。全町避難が続く福島県富岡町では、昨年3月25日の警戒区域解除で立ち入り可能になってから、1年経った。案内ツアーを企画する、食堂受託会社の藤田大さんと町を歩き、その現状と思いを聞いた。
「頭からつま先まで原発と関係」
大雪の残る2月下旬。午後1時に約10人を乗せたバスが、いわき市のJRいわき駅を出発した。駅から富岡町まで車で約40分。大型店舗が並ぶ幹線道路・国道6号を北上する。藤田さんは、福島原発と自身の関係から話を始めた。 ―――私は、髪の毛の先からつま先まで原発と関係あります。小学校の遠足では、原発の中に入った。原発はあるのが当たり前。仕事も、親父の代から、原発内で食事の仕事をさせてもらった。あの地域には、原発と関わる人がたくさんいます。 約15分後、いわき市北部の久之浜地区を走る。当時「屋内退避」となる半径30キロ圏の地区だ。「いわきも危ない」とのイメージが広がったが、広大ないわき市全体からみれば30キロ圏内はほんのわずか。久之浜は、いわき駅から15キロ以上、小名浜港からは30キロ離れている。 一時閉店していたセブンイレブンも、今は車がひっきりなしに立ち入り、活況だった。ただ、国道から一歩海側に入ると、津波被害で無残な地域が今も広がる。工事クレーンが車窓から見えた。 ―――警戒区域が解除になっても、状況はあまり変わらない。変わったのは、線量を自分で管理すること。自由に立ち入りできるが、その線量は記録する。どの程度被ばくするか、自己責任です。
防護服を着ますか?
さらに5分ほど走ると、いわき市から双葉郡・広野町に入った。広野町は当時「屋内退避」区域で、他町のように強制避難ではなかった。町全体が一時自主避難したが、すぐに町民は戻ってきた。 作業員向けのプレハブが目立つ。3年前、急きょ空き地に作業員向けプレハブ小屋を建てていた場所は、今は真新しいアパートに変わっていた。 ―――プレハブは、原発の作業員やゼネコン業者が使います。住宅の屋根もしっかりしている。原発事故が落ち着いた後は、町民が片付けをしたり、この町までは業者も家の直しにきてくれました。 右手に広野中学校がみえる。この中学校などに、双葉郡の教育再生の目玉として、中高一貫校を作る予定だ。「広野町は活発」という。原発の収束作業と除染作業でにぎわい、双葉郡の窓口としての機能も担いつつある。 ―――富岡町が近づいてきました。防護服は、着ても着なくてもいいんです。着る人はいますか? 誰も手をあげない。富岡町のしおりには「町に入るときは、防護服きてください」とかかれている。ただ、防護服自体は、アルファ線以外は放射線を通す。外に放射能を持ち出すことを防ぐ効果がある。 ―――「着てください」といえばいいのに、「着ないでもいいです」といいました。みなさんに自己判断をゆだねたわけです。ぼくらはずーっとそういう状態で、いろんな判断を迫られているんです。