子供の栄華見ず死去「道長の母」が告げられた予言 「尾張国解文」で知られる藤原元命も同じ一族
信濃守だった藤原陳忠は、任務を務めあげ、都に帰ることになります。その途上、信濃と美濃国境の御坂峠を越えようとしたときに、藤原陳忠の馬が谷底に転落してしまうのです。 当然、藤原陳忠も馬に乗っていましたから、谷底に真っ逆さまに落ちました。藤原陳忠の郎党らは、主人の心配をしつつも、谷底に降りて、助けることもできず、困惑していました。すると、谷底から、人が叫ぶ声がしたのです。なんと、藤原陳忠は生きていました。
藤原陳忠が何を叫んでいるのか、耳を澄まして聞いてみると、どうやら「籠に縄を長くつけて、谷底に降ろせ」と言っているようです。郎党たちは、主人の言うとおりにします。今度は「引き上げよ」との藤原陳忠の声が聞こえたので、縄を引き上げました。 ところがおかしなことに、籠は軽々と上がってくるのです。藤原陳忠が籠に乗っているならば、こんなに軽いはずはありません。皆が疑問に思っているうちに、籠が上がってきました。すると、籠の中には、平茸がいっぱい入っていました。
皆が、顔を見合わせて「どうしたことか」と思っていると、また谷底から「もう一度、籠を下ろせ」との声が聞こえてきます。そこで、再び籠を谷底に降ろして、引き上げました。今度は、藤原陳忠自身が籠に乗り、上がってきました。片方の手は縄をつかみ、もう片方の手には、また平茸を掴んでいました。 藤原陳忠は郎党たちに「谷底にはまだまだ平茸が生えていた、取り残しも沢山あるので、残念だ、大変な損をした」ということを告げます。
そのとき、藤原陳忠は「受領(国司)たるものは、倒れた所の土をつかめと言うではないか」との言葉も残しています。谷底に転落するという危難にあいながら、それをものともせず、平茸をかき集めて、上がってくる。国司の強欲を象徴するような逸話の1つです。 ちなみに、この藤原陳忠は「藤原南家」(藤原不比等の長男・藤原武智麻呂が祖)の出身であると言われています。 ■我が子の栄華を見ず、この世を去った時姫 さて、話が逸れてしまいましたが、藤原元命を輩出した魚名流の生まれである、時姫は3男2女を生みます。ところが、時姫は我が子・道長の出世と栄華を見ずに、980年には亡くなったとされます。