路線バス問題だけじゃない! なぜ日本では「移動の自由」に関する真剣な議論が起こらないのか
交通本来の役割
日本でいわゆる、誰もが自由に「移動できる権利」が問われるようになったのは1960年代後半からだ。 【画像】えっ…! これがバスドライバーの「年収」です(計12枚) 1964(昭和39)年のパラリンピックでは、車いすを利用した外国人選手の ・自由な買い物 ・レストランでの食事 が社会的な話題となった。リフトバスの存在もそのときに知られるようになった。リフトバスとは、車いすのままで乗降できるようにリフト(昇降装置)が装備されたバスである。 交通を中心にしたバリアフリー、ユニバーサルデザイン(普遍的なデザイン)が専門で、路線バスの研究者でもある筆者(西山敏樹、都市工学者)は講演や対談で、交通の“役割”は生活者の三大欲求である、 ・物 ・情報 ・場 を得るためのものと説明している。パラリンピックの外国人選手たちは、本当に自由に物・情報・場を手に入れようとしていた。日本の選手たちにとってはカルチャーショックだったに違いない。
「移動権」という権利
私たち日本国民全員が人間らしく生きていくためには、物・情報・場への平等なアクセスを提供する制度設計が不可欠である。つまり、誰もが自由に移動できる権利 「移動権」 を、日本国憲法の基本的人権の平等に位置づける運動が日本で起こるべきなのだ。 1960年代末から1970年代初頭にかけて、宮城県仙台市で、障がいのある市民が段差を取り除き、まちに出て、社会に参加・活躍できるようにするための 「生活権拡張運動」 が生まれた。同じ頃、東京都町田市では車いすの職員を雇用し、車いすの利用しやすい街づくりを政策課題とした。町田市の重度障がい者の移動支援として導入されたリフト付きバン車両「やまゆり号」は、交通バリアフリー時代の到来を象徴するものとして語られることもある。このように、日本では1970年代後半から、誰もが「移動権」を確保するための運動が本格的に始まったのだ。 ここで重要なのは、重度障がい者たちが、できるだけ自由に外出したり移動したりできるように、自分たちの権利を守ることに関心を示し、運動を始めたことである。国際的にも、既存のバリアーをなくすというバリアフリーの概念から進展してきた。 1985年頃、自身も車いすの利用者だった米国の建築家ロナルド・メイスが、多くの人が使いやすいインフラ、製品、サービスを考え導入するユニバーサルデザインの概念を明確に提唱した。日本ではつくば万博の頃である。 この考え方が日本に導入されたのは、モータリゼーションの進展により、ローカル鉄道や路線バスが衰退し始めた頃である。このような背景から、交通のユニバーサルデザインを実現する上でも、「移動権」を基本的人権の平等に位置づけ、政策構築や制度設計の優劣の基準とする考え方も生まれた。