路線バス問題だけじゃない! なぜ日本では「移動の自由」に関する真剣な議論が起こらないのか
未熟な日本の「移動権」議論
そして、法学者のグループが日本交通法学会を設立した。「移動権」に関する議論の場となり、1998(平成10)年には「交通権憲章」を発表した。ここには人々の自由な移動の保障がうたわれている。フランスでは、 ・公共交通や物流の格差是正の観点 ・「移動権」を社会的権利として法的に位置づける観点 から議論が進められ、1982年に国内交通基本法が成立した。日本と異なり、 「公共交通に税金を使うこと」 に対する国民の反対が少ない。これは法的な議論の成果と考えられる。米国では1990年に障がいを持つ米国人法(ADA)が成立し、障がい者の交通における差別が禁止された。 欧米ではこのような実践的な法整備が進んでいるにもかかわらず、日本の関係学会では交通権憲章が出されるにとどまっている。日本では、移動の自由という基本的人権に関する国内の議論はあまりにも未熟だ。 そもそも、日本国憲法が保障する基本的人権、すなわち生存権や幸福追求権を実現するためには、個人が自由に移動し、物資を輸送できる環境を整える必要がある。SDGsの時代だからこそ、「移動権」を確保し、人間らしい生存権を保障し、幸福追求権(最近の流行語ではウェルビーイング)を高めることが、国際社会の一員としての日本の貢献であることを忘れてはならない。 「移動権」を法律で明確に保障することは、公共交通の維持に対する公的財政支援の基盤にもなる。同権を明確に認めるよう、国に働きかける必要があるのだ。
移動の重要性再考
イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはコロナ禍のなかで、人間が他の人間を支配する最も効果的な方法は 「移動を制限すること」 だと説いた。コロナ禍では、行政が立法を上回る 「一時的な例外状態」 となった場所が世界中に極めて多く存在した。アガンベンは、移動の自由の制限に対して非常に強い警鐘を鳴らし、DX社会と対比させながら、それでも移動の制限を強く否定した。 まさに、物・情報・場という三大欲求を人間らしく満たすためには移動が不可欠であるという立場をとった。人間社会が生存のために大切にしてきた移動という行為そのものの重要性に疑問を呈したのだ。 3年間続いたコロナ禍を脱した今、私たちは次のステージに進もうとしている。通勤や旅行を再開し、移動の有用性を享受している。 移動は、誰もが自らの心身の健康、つまりウェルビーイングを高めるために不可欠なものである。今こそ日本は、移動の有用性を再考し、政府が「移動権」を明確に認める環境を整えるべきときである。読者の皆さんにも、その重要性を認識してもらえれば幸いである。
西山敏樹(都市工学者)