追悼。闘将・星野仙一氏の鉄拳と人情と再建手腕。「この男をつまみ出せ!」
筆者にも忘れられない思い出がある。 スポーツ新聞の記者時代、第一次政権の最終年となる1991年の終盤に「星野続投」と打った。だが、星野監督の退任が決まっていて“特オチ”した。翌朝、一番で星野さんの自宅へうかがった。 すでに中日スポーツの星野番記者がリビングに上がりこんでいた。進退については、「色々と新聞が書いているなあ」と言っただけで、それ以上、触れなかった。しばらくして星野さんは、もう出かけるという。何も収穫のないまま退散となりかけたときに星野さんが言った。 「おまえは残っとけ」。中日スポーツの記者を帰らせ、愛車だったベンツの助手席に乗せてもらった。 「おまえはアホやな。3年も優勝を逃して来年も監督をできるわけがないやろ」 辞任だった。 「今から加藤オーナーに会いにいく。おまえはビルの近くでわからないようにして降りろ。それまでに聞きたいことを聞け。全部話してやる。いいように記事にせえや」 その車中での一問一答を記事にした。退団を“特オチ”したが、コメントをひとつも出していなかった星野さんが自らの辞任と、その理由を語ったインタビュー記事は、ほんの少しだがミスを挽回する内容になった。 星野さんの人情だった。 以来、顔を合わせるたびに何十年も「おまえは俺に借りがあるやろ」とつつかれた。 阪神を優勝に導きながら健康上の理由で電撃退任した際には、誰一人特オチの記者がでないように事前に番記者に伝え「シリーズが終わったら書け」と語っていたという。 星野さんはサインを求められると達筆な筆を使い「夢」と書いた。 北京五輪で代表監督として失敗。コミッショナーに就任して日本のプロ野球を大改革しようという野望は挫折した。しかし、星野さんが抱く「夢」が消えることはなかった。 野球殿堂入りが決まったちょうど1年前に「今は楽天の副会長だが、楽天だけにとらわれず、これからは少年野球、アマチュアも含めて野球界全体のことを考えて行動したい。底辺を拡大していかないと野球界は破滅してしまう」という話を熱弁した。 「全国の子供が野球をできる環境を整わせないといけないよな」 星野さんが目を向けていたのは野球界の未来だった。 70歳。燃える男・星野仙一の早すぎる永眠。その思い出を辿ると涙が溢れた。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)