ホンダ・S600(昭和39/1964年3月発売・AS285型)【昭和の名車・完全版ダイジェスト023】
ホンダF1のイメージを市販車に反映底抜けに回るDOHCが新次元に導く
この連載では、昭和30年~55年(1955年~1980年)までに発売され、名車と呼ばれるクルマたちを詳細に紹介しよう。その第23回目は、ホンダのミニスポーツカーとして話題を呼んだ、S500の発展形となるS600の登場だ。(現在販売中のMOOK「昭和の名車・完全版Volume.1」より) 【写真はこちら】日本のモーターリゼーションの主戦場は当時あくまでも軽自動車。その層に向けて、ミニスポーツカーを作り上げようとした(全7枚) 平成3(1991)年に世を去った本田宗一郎氏が、本田技術研究所を設立したのは、戦後間もない昭和21(1946)年のことだった。 ごくつつましいスタートで、まず自転車用の原動機、次いでスクーター、オートバイの生産に進出し、戦後の昭和20年代に雨後の竹の子のように群生した国内のオートバイメーカー間の激しい競り合いに勝って会社を大きく成長させた。 さらにオートバイの世界チャンピオンシップレースに挑戦し、伝統に輝く世界の強豪をなぎ倒してトップの座につくなど、「世界のホンダ」として着々とその地歩を固めていった。 ホンダの最大の特徴は、過去にこだわらぬ高度の先進性で、そのことは日本のモータースポーツが開花する前に早くも鈴鹿サーキットの建設に乗り出したことからもうかがえる。しかし、昭和38(1963)年5月に第1回日本グランプリが鈴鹿で開催されたとき、ホンダ自身には出走させるクルマはまだなかったのは、皮肉な話である。 だが、その前年の東京モーターショーにはホンダとして初めての4輪乗用車(商業車としてはT360があった)市場への進出のさきがけとなる2台のミニスポーツカーが出品され大いに注目された。それがホンダS360とS500である。
オートバイ的発想の後輪駆動メカニズム
この両車のデビューと昭和39(1964)年8月のドイツGPからはじまるホンダのF1挑戦とは密接な関係がある。F1マシンもSシリーズ・スポーツカーも実はオートバイのチャンピオンシップレースで得られた重要なノウハウを四輪部門に転用し、さらに大きな発展を見せようとするホンダの偉大なポリシーの一貫だったからである。 そしてそのことは、Sシリーズの基本レイアウトに反映している。S360/500のユニークなチェーンケースを用いた後輪駆動メカニズムが、オートバイ的発想であることは改めて言うまでもないだろう。 ホンダの四輪車部門への進出計画は昭和35 (1960)年頃からスタートしたという。当時、本田宗一郎社長はロータス エリートに乗っていた。レーシングエンジン(F1用を含む)であるコヴェントリ・クライマックスのSOHCタイプの4気筒エンジンを搭載し、これまたレース用のZF製のギアボックス付きのこのモデルが、ある程度ホンダ Sシリーズの発想にも影響を及ぼしたと見ても差し支えあるまい。 だが、ホンダは日本の自動車事情をよく見通していた。一足とびにヨーロッパなみの排気量を持ったスポーツカーへと背伸びをすることはなかった。日本のモーターリゼーションの主戦場は当時あくまでも軽自動車であり、ホンダとしてはそのような購買層を前提としてミニスポーツカーを作り上げようとしたのだ。 昭和37(1962)年発表のプロトタイプには、360と500の2種類があったが、翌昭和38(1963) 年の10月から発売されたのは500だけで、360は幻のスポーツカーで終わった。決定的なパワー不足(33psと言われる)がその原因のひとつだろう。