“文永の役”から750年…乏しい考古資料 「戦場にはなっていない」各地で持ち上がる疑義
1274年に元・高麗連合軍が侵攻してきた「文永の役」。長崎・対馬で火ぶたがきられ、壱岐そして福岡・博多が戦場になったとされるが、ほとんどが文献史料によっている。果たして戦いの詳細はどのようなものだったのだろうか。 【写真】元軍兵士の衣装で流鏑馬を行うモンゴル人の騎手 今に伝わる文献史料では、筥崎八幡宮(福岡市東区)などが祀(まつ)る八幡神の神徳を述べる「八幡愚童訓」や、博多の戦いを描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」などがある。これらを参考に戦闘の模様を記すと、以下のようになる。 まず攻撃を受けたのは長崎の対馬。文永11(1274)年10月5日、元・高麗連合軍が対馬西海岸の佐須に現れた。島の中心地・厳原から宗資国(そうすけくに)(助国とも)が80余騎を率いて駆けつけたが全滅した。佐須の集落は火をつけられ炎上したとされる。 同14日には壱岐が襲われた。その後、今津(同市西区)沖に現れ、20日に百道(同早良区)付近に上陸。名乗りを上げて一騎打ちを作法とする日本の武士は集団戦法で、火薬兵器「てつはう」を使う敵軍にてこずる。戦いは赤坂(同中央区)、鳥飼浜(同中央区、城南区)であり、元・高麗連合軍は同市早良区の祖原山に陣を敷く。対する日本側は当時の海岸線から10キロ余り内陸の水城(福岡県太宰府市、同大野城市、同春日市)に撤退。21日朝、連合軍の姿は消えていた。 ∂∂ あらためて研究者たちに聞いてみると、被害の実態についてはさまざまな意見があるようだ。 焼き払われたとされる対馬・佐須地区。九州歴史資料館の井形進さん(仏教美術史)は、地区に平安時代の仏像が残っていることに着目する。「寺は襲っていないのではないか」と同地区の被害の大きさについて疑問を呈す。 舩田善之・広島大准教授(モンゴル史)は「戦闘は相手の戦力を減らすため。軍が駐屯していなければ放火対象ではない」とする。対馬の郷土史家、永留史彦さんも似た考えだ。「武士団壊滅が狙い。厳原では高麗と付き合いがある一般人にも被害が出るので佐須におびき出した」。長崎県教委の発掘調査では文永の役での火災の跡は確認できなかった。 博多での戦いでも同様の疑義が持ち上がっている。 福岡県観光WEB「クロスロードふくおか」は「櫛田神社や筥崎宮に火が放たれ、博多の町は炎に包まれました」と記す。しかし、佐伯弘次・九州大名誉教授は「博多の火災の記録はない」。福岡市博物館の堀本一繁さん(日本中世史)は「博多も箱崎も戦場にはなっていない」と話す。 堀本さんによると、百道に上陸した連合軍は東に進軍し、見晴らしがいい現在の福岡城あたり(赤坂)に陣を敷こうとするが、撃退されて西へ退き、祖原山に布陣したという。堀本さんは「日本は騎馬中心。船で来たモンゴル・高麗軍は歩兵中心。日本が強い」と言う。 そもそも武士の一騎打ち戦法への疑問を呈する研究者もいる。「史料を分析すると武士は守護の指揮で戦う集団戦。一騎打ちは八幡愚童訓の創作」と語るのは元寇(げんこう)研究会名誉会長の佐藤鉄太郎さん。そして「戦いは日本が圧倒した」と考える。 ∂∂ 21日朝に敵軍の姿が消えた、ということについてはどうだろうか。 服部英雄・九州大名誉教授は、戦闘は数日間続いたと考える。その根拠は「関東評定衆伝」という史料に10月24日に「大宰府で合戦」という記述があることだ。上陸の4日後に水城の内側で戦いが行われたとも読め、「八幡愚童訓」の記述にも符合する。これに対し佐伯さんは「武雄神社(佐賀県武雄市)が幕府の機関に出した訴状に1日で元・高麗軍が帰ったという記述がある」とし、「もう少し検討が必要」と話している。 撤退理由は元の正史「元史」が「軍内部の対立があり、矢も尽きた」と記している。研究者の間では「威嚇の目的は果たした」「大宰府占領に失敗した」など見解が分かれる。高麗の正史「高麗史」によると、帰路に嵐に遭い1万3500余人が帰還しなかった。 7年後の弘安4年、元は高麗と征服したばかりの旧南宋の兵員を加え再び日本を襲う(弘安の役)。しかし、博多湾では防塁に阻まれて上陸できず、伊万里湾で台風に見舞われた。 弘安の役に関しては、防塁跡、鷹島神崎遺跡などさまざま考古資料が発見されてきた。ただ、文永の役についてはほとんどないのが現状という。今年で750年。謎の解明はまだ道半ばだ。 (古賀英毅)