谷川俊太郎の出演シーンが胸にきざまれる『ハリヨの夏』【面白すぎる日本映画】
文・絵/牧野良幸 現代日本を代表する詩人として、また童話、絵本、翻訳などでたくさんの人々に親しまれてきた谷川俊太郎さんが11月に亡くなられた。 僕も絵をなりわいとしているので、絵本はもちろん美術界を通して谷川俊太郎さんの詩にふれることが多くあった。たくさんの画家、イラストレーター、版画家が谷川俊太郎さんの詩に挿絵を描いている。クリエイターもまた谷川俊太郎さんの詩に刺激を受けてきた。 谷川俊太郎さんの詩には平易な言葉のなかに突然思いもしない言葉があらわれることがあり、それが高尚な言い回しよりも心に響いたものである。 音楽の世界でも谷川俊太郎さんの仕事は多い。「鉄腕アトム」の作詞が有名だが、僕が最も印象深いのは武満徹が作曲した『系図(ファミリー・トゥリー)』という曲である。谷川さんの詩が武満徹の音楽と溶け合うように朗読される。平易な家族の描写から生命の尊さがあふれ出てくる詩だ。 さて、この連載は映画を取り上げて書くので、今回は谷川俊太郎さんに関係のある映画にしようと思う。 谷川俊太郎さんは映画でも仕事を残されている。シナリオでは以前ここにとりあげた市川崑監督の『東京オリンピック』がある(市川崑、和田夏十、白坂依志夫との共同執筆)。同じく市川崑監督『股旅』も谷川俊太郎さんのシナリオである(市川崑との共同執筆)。 出演作ではドキュメンタリーもあるようだか、生物の教師役として出演している映画があったので今回はそれを取り上げる。『ハリヨの夏』という映画だ。 『ハリヨの夏』は2006年に公開された映画で、監督は中村真夕。 主人公は京都で暮らす高校三年生の瑞穂(於保佐代子)。 ファーストシーンは瑞穂が鴨川沿いを自転車で走る場面だ。そこに同級生で水泳部の翔(高良健吾)が追いつく。瑞穂はスピードを上げ翔を振り切る。翔も負けずと追いつく。 瑞穂は「なに、こいつ?」という顔をするが嫌そうではない。瑞穂はそのあと川で翔に泳ぎ方を教えてもらうのだから。 この二人、やっぱりねー、と冒頭こそツンデレの青春映画を思わせるが、この映画はそういった作品ではない。『ハリヨの夏』は17歳の少女が激流のなかを生きる1年を描いた映画だ。 その夏、瑞穂の心は荒れていた。瑞穂は母(風吹ジュン)と妹(松本花奈)と三人暮らしをしているが、瑞穂が信頼できるのは別居している父親(柄本明)のほうだ。 ある日、瑞穂は父親からハリヨを贈られる。ハリヨはきれいな水質でしか生息しない魚で体長は6センチほど。背中には3本のとげがあり,それで小さな体を守っている。 瑞穂はハリヨを水槽のすんだ水で育てるが、瑞穂の心は澱んでいく。 母親の奔放な性格が気にさわる。母親にも、母親がつきあっている元米兵の大学教授チャーリー(キャメロン・スティール)にも反抗的になってしまう。大好きな父親さえ瑞穂のお誕生日会をすっぽかした。同級生の翔に対しても素直になれない。 瑞穂がまわりの人間につっかかるのは感受性の強い17歳の自我を守るためだろう。ハリヨが背中のトゲで身を守るのと同じことなのかもしれない。 瑞穂の心はますます澱んでいく。楽しみにしていた夏休みの家族旅行に父親はこない。父親には恋人がいて父親との子をみごもっていた。家族がふたたび一緒になる望みは完全に消えたのだ。自暴自棄になった瑞穂はチャーリーと関係を持ってしまう。 ここで谷川俊太郎の出演場面となる。学校での生物の時間。スライドを映して生物の生態を講義している先生が谷川俊太郎である。 「私たちの祖先は……」カシャ(スライドの変わる音)。 「長い歳月をかけて進化の旅をしてきました……」 「人間の胎児の成長過程には……」カシャ。 「生殖期のサケは自ら生まれた川に命をかけて戻り、産卵すると死んでしまいます……」カシャ。 「女性のからだも排卵、月経を受胎の日まで繰り返し、命の波の一部を形成しているのです」 教室はカーテンをひいて暗いので、先生に明かりはほとんどあたらない。前もって知らなければ、谷川俊太郎と気づかないかもしれない。この先生は登場人物と直接かかわることはない。 ということでこの映画では演技というより語りに近いかもしれない。しかし俳優ではなく谷川俊太郎だからこそ、見る者はこのシーンで生命へのいつくしみを胸にきざむのではないか。実際ここから映画は「命」が主役となってくる。 瑞穂は妊娠した。おなかの赤ちゃんの父親はもちろんチャーリーである。瑞穂はチャーリーに妊娠したことを告げるが、チャーリーは瑞穂の将来を理由に中絶を説得する。別居中の父は新しいパートナーとの間に子どもが生まれたばかりで、瑞穂は妊娠を言い出せない。 チャーリーも父親も瑞穂に思いやりのある言葉をかけるものの、いざ生命の誕生を前にすると瑞穂の力になれない。ハリヨはオスが巣を見張って卵を守るが、人間のオスは頼りにはならないようだ(あくまでこの映画に登場する人間のオスの話です)。 結局,瑞穂の妊娠に正面から向き合ったのは、ふだんは自由奔放に生きてきた母親である。 ここから時間をはやめると瑞穂は学校をやめ、春になるとおなかも大きくなった。瑞穂は母親と妹にささえられて分娩室に向かう。 再び夏がやってきた。場面は映画の冒頭と同じ鴨川である。ベビーカーを押している瑞穂は一年前の瑞穂ではない。瑞穂は人生の荒波を泳げる人間になっていた。 『ハリヨの夏』は17歳の高校生の日常を通じて人間の孤独や生命の尊さを描いている。深刻なテーマをあつかっているのに清涼感さえあった(於保佐代子のショートカットの効果が大きいかも)。 エンディングロールで出演者の名前がスクロールする。最後のトメは柄本明だが、その前が谷川俊太郎である。谷川俊太郎の名前を見るにつけ、命が主題のこの映画が深いものに感じるのは僕だけだろうか。 【今日の面白すぎる日本映画】 『ハリヨの夏』 2006年 上映時間:99分 監督・脚本: 中村真夕 於保佐代子、高良健吾、風吹ジュン、松本花奈、キャメロン・スティール、柄本明、谷川俊太郎、ほか 音楽 :PE’Z 文・絵/牧野良幸 1958年 愛知県岡崎市生まれ。イラストレーター、版画家。音楽や映画のイラストエッセイも手がける。著書に『僕の音盤青春記』 『少年マッキー 僕の昭和少年記 1958-1970』、『オーディオ小僧のアナログ放浪記』などがある。
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