パラテコンドー&身体障害者野球 市川青空(そら)進化の軌跡「目の前が真っ暗になった身でも這い上がれる」大事故から世界で戦うファイターへ
パラテコンドーとの出会いと監督の熱意
市川がパラテコンドーと出会ったのは事故から1年近くが経とうとしていた22年の4月だった。名古屋で行われた「J-STARプロジェクト」に参加したことがきっかけだった。 このプロジェクトはオリンピックやパラリンピックを目指す未来のトップアスリートを発掘する施策。市川は迷わず参加を決めた。複数の競技団体からスカウトを受けた中、選んだのがパラテコンドーだった。 「入院中からパラスポーツを調べていたので、テコンドーも知っていました。そこで初めてミット打ちをしたり、ステップも丁寧に教えていただいた時に面白さを感じられたんです。あとやるからには世界を舞台に戦いたいと考えていました。すぐにトップ選手と戦える競技は何かも見極めて選びました」 恩人と上述した田中先生にも競技挑戦の報告を真っ先にしたという。 「最後の診察時にパラテコンドー挑戦の報告をしました。先生も『世界で戦う選手になってきてね』と言ってもらい、今も恩返ししたい想いでやっています」
開始当初は階段1段を登るのも疲労を感じる状態から再び体をつくっていった。その間、ある方が岐阜に何度も足を運んでくれた。 「東京パラリンピックで日本代表監督を務めていた洪君錫(ほんくんそく)さんが練習をしに来てくださったんです。本当に嬉しかったですね」 仕事復帰してからも大会出場を見据え練習を続けていた中、市川はある決断をした。高校卒業から勤めていた会社を辞めて、アスリート雇用を行っている「太平電業株式会社」に転職した。 初めて地元を離れ、神奈川で一人暮らしを始めた市川は早速国際大会へと参加を重ねていくことになる。 「瞬発力やスピードに自信がついてきたのですが、海外の選手は体格が違って圧倒されるばかりでした。厳しい世界に入ったなと思いましたね」 その後は「第16回全日本テコンドー選手権大会」に出場し、58キロ級で3位の成績をマークした。昨年はさらに国際大会への出場を増やしていった。 「去年は日本にいる時間が少なかったです(笑)。世界選手権に参加しまして、エジプトやオーストラリア、レバノンそしてメキシコと4大会も出させてもらいました」 一年間世界を舞台に実戦の場を重ね、実力をつけていった。昨年末は世界ランク50位だったが、現在25位まで上げている。