父親は39歳で急逝、母親は心臓手術の後遺症で車椅子生活に、弟は知的障害を伴うダウン症……ドラマになった作家・岸田奈美さんの家族物語
親子であり、同僚であり、苦楽を共にした同志であり
そんな奈美に甘えてもらえるように、歩けなくなった私にできることの全てを使ってせいいっぱい支えたいと思いました。あれこれ口うるさくアドバイスをするのではなく、ひたすら奈美を信じて待とう。助けを求められたら、その時は待ってましたと惜しみなく手を差し伸べよう、そう決めました。 あとは、楽しいと思える時間をたくさんつくって、楽しいと感じてもらえる機会を増やすこと。ドライブしたり、買い物に出かけたり、おいしいご飯を食べたりしながら、お互いに心を全開にしながらいろいろな話をしました。 進路の話はほぼせずに、お互いに励ましあったり、一緒に落ち込んだり、爆笑したり。そうしているうちに、気づけば奈美は、なりたい自分を見つけ、そのために今何をしたいのかを考え、いきたい大学も決めて受験することになりました。 優しい社会をつくりたいという、ざっくりとした大きな夢を叶えるためには何をすればいいのか。たくさん悩んだ結果、まずは一番近くにいる歩けない母や、知的障害のある弟が行きたいところに行ける、学びたいところで学び、働きたいところで働ける場所をつくりたいという夢にたどり着き、そのために必要なことを学べる関西学院大学人間福祉学部社会起業学科を受験することにしました。 今でも奈美は言います。これまでの自分の人生で初めて、夢を叶えるために諦めずに本気で勉強したと。その甲斐あって、見事、志望していた大学に合格し、自分の夢に大きく一歩近づくことができたのでした。 そして、入学後、間もなく、ユニバーサルデザインのコンサルティングをてがける株式会社ミライロを立ち上げたばかりの2人、垣内(俊哉)社長と民野(剛郎)副社長に出会い、3人めの創業メンバーとして奈美が加わることになりました。 その1年後、ママもミライロで働いてほしい、一緒にユニバーサルデザインを社会に広めてほしいと、奈美に誘われ、私も一緒にミライロで働くことになったのです。 娘と同じ職場で一緒に働くという機会はとてもありがたく、頑張っている様子や苦労している状況を、お互いにリアルタイムで見ることができるので、尊敬や信頼、感謝という気持ちがこれまでよりも大きくなりました。語らずともお互いのことをちゃんと理解し、認め合えるようになりました。 時には耳が痛くなることも言い合いますが、それは相手を思ってこそのこと。本当の意味で、私にとっては誰よりも素直に話せる、頼りになる存在が娘の奈美になっていました。それはきっと、これまでのお互いの経験がどれほど大変なものだったのか、どれだけ傷ついてきたのか、どれだけたくさん頑張ってきたのかを知っている者同士だったからなのかもしれません。 最近では奈美に頼られることより、私が奈美に頼ることのほうが間違いなく多くなってきました。申し訳ない気持ちと、こんなに頼りになる存在になってくれたことの嬉しさが入り混じったごちゃごちゃした気持ちではあるものの、今が幸せだと思えるのは間違いなく奈美のおかげです。 これからも奈美には感謝をしながら、奈美にも私を頼りにしてもらえる存在でいられるように、私自身が幸せに健やかに生きていきたいと思っています。 ※『人生、山あり谷あり家族あり』より一部抜粋・再構成。
デイリー新潮編集部
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