父親は39歳で急逝、母親は心臓手術の後遺症で車椅子生活に、弟は知的障害を伴うダウン症……ドラマになった作家・岸田奈美さんの家族物語
夫は当然、奈美の本当の思いを知っていました。そんなことを本気で思っているはずはないとわかっていました。だから夫は意識がなくなる前に私に、 「奈美ちゃんはちゃんといい子に成長してる。大丈夫やから。頑張れって伝えてほしい」 と、薄れゆく意識の中で一生懸命、伝えてくれました。 「奈美ちゃんは大丈夫! 頑張れ!」というパパのその言葉は、今でも奈美の体の細胞の隅々に染み込んでいて、ずっと奈美を支えているように思えます。 夫はこの世にもういませんが、なぜかいないという感覚が私にも奈美にもあまりありません。人の形をしてはいないけど、いないように思えないのは、パパにそっくり瓜二つの奈美の中に夫は生き続けていて、私はそんな奈美をとおして夫の存在を感じているからなのかもしれません。
進路に悩む奈美さんがやっとぶつけてくれた苛立ちが嬉しかった
夫が亡くなってからは、奈美と一緒に悲しみをやり過ごし、壁にぶつかったら一緒に力を合わせて立ち向かい、楽しいことはしっかりと何倍も楽しいを感じながらたくさん笑って。時には母と娘、時には奈美が母で私が娘のようになったり。また時には友人だったり同じ志をもつ同志だったり。ほとんど喧嘩もすることなく、とてもいい関係でいることができました。 しかし、夫が亡くなってから3年後、私が生死を彷徨う病気になり、後遺症で歩けなくなってからはその関係性が徐々に変わってきました。当時、16歳だった奈美には、苦労をかけることが増えてしまいました。 歩けなくなって落ち込んでいる私のことを元気づけようと、つねに寄り添い、優しい言葉をたくさんかけてくれたり。私が喜ぶ場所に連れて行ってくれたり。弟の面倒をみてくれたりと、とにかく私が嬉しく、楽しくなることを一生懸命に考えながらやってくれていました。私にとって最も頼りになる存在、それが娘、奈美でした。 少し前にパパを亡くし、今度はママが重い病気で歩けなくなるという、辛すぎる経験を立て続けにしなければいけなくなった、たった16歳の娘には、ただただ申し訳ない気持ちでしかありませんでした。 本来ならば、わがままを言ったり、自分勝手に行動していいことも、いつも私のことを考えてくれるので、頑張っていい子でいてくれる奈美のことをとてもありがたいと思いつつも、いつか頑張っている気持ちに限界がきて、心が潰れてしまわないかとつねに心配がつきまとっていました。 そんなある日のことです。 約2年の治療とリハビリ入院を終え、自宅での生活が始まって間もない頃でした。 ちょうど奈美は高校を卒業した後の進路を決めないといけない時期でした。 大学にいくのか、いかないのか。いくならどこの大学か。そのためにどれだけ勉強しなければいけないのか。勉強も進まず、母親のことも気にかけないといけない中で自分が何をしたいのかもわからず。それでも答えを出さなくてはいけないという状況に追い詰められていました。 そんな娘への、私が思いついたアドバイスは、生前に夫が言っていた言葉でした。 「奈美ちゃんは大学までいってほしい。学歴は大事だから勉強は努力してできるだけいい大学へいってほしい」 大好きな、似た者同士のパパの言葉なら奈美に届くはずと思ったのですが、その言葉を聞いた奈美は、それまでのいい子の態度とは打って変わり、声を荒げて泣きじゃくりながら私に訴えました。 「そんなこと言わないで! 大学にいったら絶対にいいことあるの? パパとママは大学にいって幸せやったん? そんなふうに思えない! 何のために大学にいかないとあかんの? 私のことなんてわからないくせに、偉そうに言わないで!」 私が病気で倒れ、歩けなくなってから初めて、奈美が私に声を荒げながら怒りを表してくれました。本来なら娘にこんなふうに言われた時、腹立たしく悲しくなるはずなのですが、この時の私の気持ちは全く違いました。嬉しかったのです。やっと素直に本音を私にぶつけてくれたからです。私に遠慮してわがままも言わず、いつもいい子でいた奈美が、苛立ちや腹立たしい思いをぶつけてくれた。ちゃんと私に甘えてくれたんだ、そう思えたから、娘の反抗的な行動がとても嬉しかったのです。