ACL決勝の舞台に立った横浜。かつて2年連続で三冠に導いたオスカーが示したように、悔恨は貴重な教訓になる【コラム】
ブラジル代表の元主将を迎えてチームが変貌
横浜はクラブ初のアジアタイトルには手が届かず、準優勝に終わった。そこで得た経験を次に活かしたい。(C)Getty Images
横浜は元来圧倒的な攻撃力を武器に頭角を現わしたチームだった。 日産自動車を原点とするクラブは1972年に創設され、2年後に全権を任され監督に就任した加茂周(後の日本代表監督)が大学の有望選手たちを大胆に補強。83年度に天皇杯で初優勝を飾った。当時のチームは、攻撃的というより攻撃にタレントが偏り過ぎていたと言うべきかもしれない。Jリーグ開幕時に監督を務める清水秀彦は、浦和市立高時代にはエースストライカーとして全国制覇に導いた経歴を持ち主だが、アタッカーが飽和状態のチーム事情でボランチにポジションを下げている。 「いくら後ろから『戻れ!』と叫んでも、前線の連中はみんな聞こえないふりをする。それでも彼らがゴールを決めて勝てたから我慢もできた」 木村和司をトップ下に、最前線には水沼貴史、柱谷幸一、金田喜稔。すべて日本代表選手で、多少守備に綻びが出ても補って余りある攻撃力で
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