知るほどに深く面白い! “大人の遊び”「香道」の世界とは?
【ポイント】
■ 595年、淡路島に香木が漂着したのが日本の香文化のスタート ■ 平安時代、貴族はぞれぞれ自分の香りを持っていた ■ 室町8代将軍足利義政の時代に香道は体系化された ■ 志野流は、志野宗信から現代まで550年本物の香道を一子相伝で継承している
目に見えない香りを嗅いで、浮かんでくる景色を歌に詠む
田中 源氏物語にも、残り香で光源氏がいたことがわかる一節があります。また香道では香りに合わせて和歌も詠みますね。 蜂谷 沈香と向き合い、語りかけます。最終的には彼らの香りに合致する歌を詠む、これがとても難しい世界なのです。例えば茶道で使用する茶入や茶杓、茶碗などは目で見ることができますから視覚的情報による景色があります。目に見えるものだから他の人が手に取っても何となく共感ができる。でも香りの場合は難しい。ある人にとっては花のイメージがしても、ある人にとっては月が浮かぶかも知れない。 石井 確かに! 田中 香りを嗅いだ時、目を閉じて浮かんでくる景色を詠むには、歌の素養も必要だし、書もうまくなきゃならない。昔の貴族は仕事だけでなく、そういう全般的な教養や感性も持ち合わせていましたね。 石井 仕事が出来ればモテるというわけじゃないのは今も一緒です(笑)。 蜂谷 それから鎌倉時代になって、武士たちにも香の文化が広がっていきました。やはり戦地は血生臭いこともあるだろうし、毎日死ぬ生きるの追い込まれた日々のなか、戦地に赴く前には気持ちを昂らせ、無事に陣に戻れれば、今度は戦いで疲れた心を癒すため、香を使ったということもあるでしょう。 そして今から550年前、室町時代になって、応仁の乱後、8代将軍足利義政の治世の下、東山文化慈照寺(銀閣寺)に多くの文化人が集まってきました。彼らは同朋衆と呼ばれ、連歌師の能阿弥、華道の池坊専慶、茶の湯の村田珠光、そして香道については志野流初代、志野宗信がその役目を担いました。千利休はもう少し後の時代、志野流の三代省巴(しょうは)と密接な関係にあり、茶道の流派の中には志野流香道のお手前が組み込まれております。なお、香道では、香りを嗅ぐとか匂うと表現しません。中国語の「聞」が、香りを感じ取るという意味になりますので、五感全部で感じ取るが如く「聞く」と表現します。 石井 へえ~。千利休も志野流の香道をしていたのですね。