岡田茉莉子「父親が銀幕スターと知ったのは高校2年生、奇しくも同じ道を歩むことに。芸名は、文豪・谷崎潤一郎先生が名付け親」
◆谷崎潤一郎から贈られた芸名 高校卒業後に帰京し、母と私は叔母夫婦の家で居候生活となりました。ある日、母と叔母夫婦から、改まった感じで「話がある」と言われましてね。 正座して聞く私に、東宝の演技研究所で勉強をしないかと言うのです。間髪を入れず「私には向いていません」と答えました。でも結局、流されるように入所することになったのです。 研究所で基礎訓練を受けているうちに、川端康成さんの小説が原作の『舞姫』(成瀬巳喜男監督)に出演することになりました。後から思えば、お膳立てができていたのかもしれません。 私の本名は田中鞠子ですが、芸名が必要だということで、プロデューサーと一緒に谷崎潤一郎先生のお宅に伺いました。谷崎先生と父は親友で、父の芸名をつけたのが谷崎先生だったからです。 谷崎先生は、父の芸名と同じ「岡田」という名字を書いた後に、「マリコ」と読める漢字をいくつか書き、好きな字を選びなさいと言われました。迷わず選んだのが、ジャスミンを意味する茉莉子でした。 私は撮影所に行くのが憂鬱で、この1本に出たらもうここに来なくてすむと、毎日自分に言い聞かせていました。ところが撮影が終わる頃には、次の作品が決まっており――そこで、覚悟を決めたのです。これからは人見知りで内気な田中鞠子を封印し、意志の力で《女優・岡田茉莉子》を演じよう、と。
仕事は次から次へと決まり、いつも台本を何冊も持ち歩く生活になりました。おかげで居候生活を抜け出し、母と二人で暮らす家を用意することができたのはうれしかった。母の名字の表札がかかった一軒家に住まわせてあげるのが、私の夢だったのです。 でも、仕事には不満もありました。『芸者小夏』(1954年、杉江敏男監督)が大成功だったため、来るのは、芸者や水商売の女、アプレゲール(戦後現れた退廃的な女性)の役ばかり。 やはり私のどこかに、暗い影があったからかもしれません。同じような役ばかりやっていては、イメージが固まってしまう。もっと幅広く人間を演じたい。 そう思った私は、思い切って一人で東宝撮影所の所長に会いに行き、「これからは私をどんなふうに使っていただけるんですか?」と生意気な口をききました。確か22歳の頃です。ほんと、怖いもの知らずですよねぇ。 東宝をやめてフリーになるときも、一人で決断しました。いつの間にか、自立心が強く、偉い人に対しても臆せず自分の考えをハッキリ言う「岡田茉莉子」が育ちつつあったのです。 やがて映画産業は斜陽期を迎えますが、私は黄金期の最後の光芒を経験できました。成瀬巳喜男監督、小津安二郎監督、木下惠介監督、市川崑監督、マキノ雅弘監督、稲垣浩監督など、錚々たる監督たちと仕事ができたのはこの上ない幸せでした。 (構成=篠藤ゆり、撮影=宮崎貢司)
岡田茉莉子
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