福沢諭吉にだけ見えていた景色…知らないうちに日本人が立たされていた「岐路」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
福沢諭吉と西周
福沢諭吉もまた、西周と同様、近代化の現場の渦中にいた一人である。その渦中にいただけでなく、福沢こそ、西洋の衝撃を誰よりも意識的に──単なる驚きとしてではなく、生じるべき変革と結びつけて──受けとめた人であり、その変革について──その理念と道筋とについて──くり返し語り続けた人であったと言えるであろう。 もちろん福沢は哲学を主たる研究対象とした研究者ではなかったが、近代化──福沢の表現では「文明」化──についての理解、さらにその学問観は日本の近代的学問の確立に大きな影響を与えた。その点を以下で具体的に見ていきたい。 福沢が一八七五(明治八)年に刊行した『文明論之概略』は、彼の数多い著作のなかでも、彼の思想の根幹にあるものを──言いかえればその原理に関わるものを──もっともまとまった形で表明したものであった。そこで福沢が問題にしたのは、表題の通り「文明」、ないし「文明」化であった。福沢はまさに「文明」化の必要性を説いてやまない人であったと言うことができる。 福沢の「文明」についての理解において重要なのは、「外の文明」と「内の文明」とを区別した点である。「外の文明」が目に見える形での文明の成果であるとすれば、「内の文明」は、それを生みだすもととなったものの見方であり、行動の原則である。そして文明化を実現するためには、「外の文明」ではなく「内の文明」を優先しなければならないというのが福沢の基本的な考えであった。 それは明らかに、進行しつつある西洋受容に対する福沢の痛烈な批判を背景にした主張であった。「外の文明」を支える内なるものにまったく目を向けることなく、ただ衣食住や法律、制度など、外に見えるものだけを移植しようとする表面的な文明論者の態度を福沢は厳しく批判したのである。 福沢は「内の文明」のもとに何を理解していたのであろうか。それは、「文明」化を支える「精神的基盤」とも言うべきものであるが、それを福沢はまず、「旧慣に惑溺せず」という態度のなかに見ていた。習慣的となったものの見方や考え方にとらわれ、他のものが見えなくなった状態から脱却すべきことを福沢は主張したのである。 この「惑溺」からいかにして脱却することができるか、言いかえれば、いかにして精神の自由を実現することができるか、それが『文明論之概略』で福沢が論じようとしたもっとも大きな問題であった。そのために不可欠と福沢の考えたものが二つある。一つは「疑の心」であり、もう一つは、思考・見解・価値の多様性である。 『学問のすゝめ』(一八七二―一八七六年)においても福沢は、「西洋諸国の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、疑の一点より出でざるものなし」と述べ、疑いこそが、文明の源であることを主張している。習慣として固定化したものの見方や先達の主張・論証を疑い、改めて検討することから、新たな法則や新たな真理の発見がなされるのであり、疑いなくしては文明の進歩はありえないというのである。 福沢が文明化に、あるいは自由の実現に必須な前提として、懐疑の精神とともに注目したのが思考・見解・価値の多様性であった。『文明論之概略』において次のように述べている。「単一の説を守れば、其説の性質は仮令い純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し」。