赤染衛門の父といわれる平兼盛の百人一首「しのぶれど~」の意味や背景とは?|平兼盛の有名な和歌を解説【百人一首入門】
平兼盛(たいらのかねもり)の生年は不明です。光孝天皇のひ孫「篤行王」(あつゆきおう)の子であり、三十六歌仙の一人に数えられています。平安中期の女流歌人、藤原道長の妻・源倫子(みなもとのともこ、または、りんし)に仕えた赤染衛門(あかぞめえもん)の実父といわれていますが、定かではありません。後撰集時代の代表的な歌人です。 写真はこちらから→赤染衛門の父といわれる平兼盛の百人一首「しのぶれど~」の意味や背景とは?|平兼盛の有名な和歌を解説【百人一首入門】
平兼盛の百人一首「しのぶれど~」の全文と現代語訳
しのぶれど 色に出(い)でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで 「我慢していたが、とうとう表情に現れてしまった。私の恋心は、何か悩んでいるのかと人に問われるほどに」。 『小倉百人一首』の40番に収められています。この和歌は、恋の感情が隠しきれずに表情や態度に出てしまう様子を詠んでいます。「しのぶれど」とは、忍耐強く心に秘めていることを意味し、「色に出でにけり」の「色」は顔つきや表情を表します。恋の歌における「色に出づ」は恋情が表に出てしまうことをいい、ここでの「けり」は詠嘆で、今初めて気づいたという感動を表しています。 「物や思ふ」の「物思ふ」は、恋の物思いをするという意味。「や」は疑問の係助詞で、「思ふ」はその係結びで連体形になっています。この「物や思ふ」の主語は、「人」(第三者)です。 「人の問ふまで」は、自分が恋をしているのではないかと周囲の人々に気づかれてしまったことを示唆しています。意味上、「色に出でにけり」に続くので倒置法が用いられています。 この歌は、天徳4年(960)に村上天皇の主催で行なわれた「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」で百人一首の次、41番に収められている壬生忠見(みぶのただみ)の 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 「私が恋しているという噂が早くもたってしまったのだった。誰にも知られないように心ひそかに思いはじめていたのに」。 の歌と「忍ぶ恋」の題で優劣を競わされたのです。この二首の歌は、判者が優劣をつけられず困っていたところ、帝が「しのぶれど~」と口ずさんだことから、兼盛の勝利となったという有名な逸話があります。 鎌倉時代の説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』には、勝負に敗れた壬生忠見が、落胆のあまり食欲もなくなり、病に倒れ亡くなってしまったという話もあります。しかし、これより後に詠まれた歌もあるので、ただの作り話といえるでしょう。ただ、このエピソードからは当時の人々の歌に対する、執念のようなものを垣間見ることができます。