バブルに消えた日産レパードJ.フェリー、まさか30年後も語られ続けるとは!【迷車のツボ】
ただ、J.フェリーも当時の専門家筋では高評価だった。なるほど日本人の一般的なツボをはずしたデザインも、すこぶる個性的で存在感はあり、プロの目からは高い造形レベルと評された。 さらに、いかにもバブル期の開発らしく、各部の設計も贅沢そのものだった。ダッシュボードには全車ウォールナットの本木目パネルがあしらわれて、内装の大半には丁寧に合皮が張り込まれていた。しかも、当時世界最上級の伊ポルトローナ・フラウ社製の本革シートまで、オプションで用意されていたのだ。 メカニズムもしかり。エンジンは売れ筋のV6以外に、国産屈指に贅沢な4.1リッターV8もあった。シャシーはセドリック/グロリアと共通部分が多かったが、当時の日産といえば、1980年代から推進してきた「901運動(1990年代までに技術世界一を目指す)」の成果がどんどん世に出ていた時代。J.フェリーにも、リアマルチリンクサスペンションや後輪操舵装置のスーパーハイキャスなど、あのR32スカイラインGT-Rにも通じる最新技術が投入されていた。実際、その静かで滑らかなエンジンと、優雅なスタイルにシンクロしたソフトな乗り心地は、当時某自動車雑誌の新人編集者だった筆者も印象深くを覚えている。 ただ、どんなによくできたクルマでも、デザインが一般ウケしないとヒット商品にならないのが世の常。月販目標3000台でスタートしたJ.フェリーも、3年9ヵ月という短い販売期間で総販売台数は約7300台にとどまった。単純計算による月販平均は200台に満たない。逆にアメリカ版のインフィニティJ30は当初の月販目標1600台ながら、実際は月販で平均3000台以上を売り上げて、日本より長い5年以上のモデルライフをまっとうした。日本のJ.フェリーはビジネス的に失敗だったが、クルマ自体はけっして失敗作ではなかった。 そして、J.フェリーの後を受けた4代目レパードは、同世代のセドリック/グロリアの外観デザインを変えただけのお手軽商品になってしまった。4代目レパードが発売された1996年3月当時の日産は、倒産寸前の経営不振に陥っており、J.フェリーみたいなハイリスク(だけどホームランにもなりうる挑戦的な)商品を手がける余裕はなくなっていた。実際、そのちょうど3年後の1999年3月に、日産と仏ルノーの資本提携(実質的にはルノーによる日産救済)が発表される......。 今は日産の経営も安定しているが、かといってJ.フェリーみたいに思わず笑ってしまうような挑戦的なクルマが出てくる気配があまり感じられないのは残念。迷車と名車は、ほんのちょっとツボがずれただけの紙一重だ。 【スペック】日産レパードJ.フェリー・タイプX 1992年全長×全幅×全高:4880×1770×1390mmホイールベース:2760mm車両重量:1650kgエンジン:水冷V型8気筒DOHC・4130cc変速機:4AT最高出力:270ps/6000rpm最大トルク:37.8kgm/4400rpm燃費(10・15モード):7.6km/L乗車定員:5名車両本体価格(1992年6月発売時)469万円 文/佐野弘宗 写真/日産自動車