村田諒太、恩師に誓うデビュー戦勝利!
8・25は恩師の誕生日
8月25日が特別な日だとは知らなかった。 デビュー戦発表の記者会見が終わると、南京都ボクシング部の顧問だった西井先生から村田諒太の携帯に電話があった。 「ついにデビューか。その日は武元先生の誕生日やぞ」 武元前川先生。 村田のロンドン五輪での晴れ姿を見ることなく、2011年2月に天国に旅立たれた南京都高校ボクシング部時代の恩師である。 「存命されていたら、いくつやったんでしょう……怖いくらいに運命を感じます。負けられません、いや負けるわけがないなと思いました」 武元先生の話をする時、村田は、少し神妙にはなるが、どこか楽しそうなのだ。 「沖永良部島出身なんで、その方言と、関西弁、標準語が、絶妙にミックスされた不思議なイントネーションで、しかも早口で喋りはるんです。だから、ほとんど何を喋っているのかが、聞き取れない(笑)。 でも『はあ?』と聞き直すと、露骨に嫌な顔をするので聞き返すことができなかったんです。髪型はゴルゴ13みたいでねえ」 恩師への思いは今なお変わらない。 少し長くなるが、村田と恩師、武元先生の話を書く。 村田は武元先生に基本技術を徹底して叩き込まれた。ジャブならジャブ。ワンツーならワンツーを「いつになったら終わるんやろう」と村田が泣きを入れるほど続く。ナンキンと呼ばれた南京都ボクシング部の伝統だ。シャドーボクシングは鉄アレイを持って。7キロ走と言われるロード走が、毎週、金曜日に1年中あった。 「主将がやらなきゃ誰がやるんだよ」 武元先生に主将に指名された村田は、そのロードワークで必ず先頭を走った。 ミットは、武元先生が直接持つ。トレーナーへのミット打ちにはタイミングに“合う”“合わない”があるが、息が合った。 そして人間としてどうあるべきかの教えを受けた。 新入生のクラブ紹介で素人の1年生をKOしてしまった時、部活内での揉め事で、同級生を相手に暴れ回って「もう部を辞める!」と部活に行かなくなった時……。武元先生に呼び出され諭された。 「逃げるとか、辞めるということは自分の才能、能力を捨てることなんだ」 胸に染みた。 「おまえの拳は、そんなことをするためにあるんやない。おまえの拳は、あらゆる可能性が秘められた拳なんや」 高校では5冠。 東洋大への進学も「おまえは関西にいたら練習せんでも勝てるから絶対に練習せん。強くなりたいなら関東の一部の学校に行け!」と武元先生が道筋をつけてくれた。大学では、反則負けが続き、ボクサーとしてスランプに陥ると、武元先生は、練習メニューを表にして送ってくれ、自衛隊のボクシング部で練習ができるように話をつけてくれる。 北京五輪の予選で敗れ引退を決意した時、武元先生が陰で人知れず泣いていたとの話を伝え聞いた。村田は、先生が涙したことを聞いて自分が情けなくなったという。 「先生は泣くほど期待してくれたのに、僕は自分に期待していなかった。練習もしていなかった。今でも、申し訳ない。そんな気持ちです」 彼は、その1年後、再起して全日本選手権で優勝を果たす。その会場では武元先生が見守っていて「良かったんじゃねえか」と祝福をしてくれた。 村田は、世界選手権で銀メダルを獲得して、ロンドン五輪出場切符を手にするが、しかし、そこには、もう信頼する武元先生はいなかった。 オリンピックではロンドン入りしてから恩師の夢を見た。 すぐそこに立っているのになぜか手を伸ばしても届かないという夢だった。 村田が、「なんでここにいるんですか?」と、尋ねても武元先生は黙っていた。 「いるんやったら、なんで声を掛けてくれないんですか」 夢の中で、村田は、そう声を荒らげたらしいが、武元先生は、ニコッと笑うだけで何も答えてはくれなかった。 目が覚めると頬が、涙で濡れていた。村田は「ああ、武元先生は、近くにおるんやわ」と思った。 武元先生の存在をそこに感じたのだ。 その瞬間に悩みやプレッシャーが消えていくのがわかったという。 高校時代も、その後、国際試合に出たときも、セコンドについた武元先生は、特別、何を言うわけではなかった。バンと背中を叩いて「大丈夫や。たいしたことない」と言われるだけだった。それで心に安心感が生まれる。武元先生が見ていてくれるだけで心強かった。