“90歳”草笛光子から学ぶ「年を重ねるごとに輝きが増す生き方」 90代のアスリート、「マクドナルド」クルーも活躍
現代の日本はモノがあふれていたり、低価格で良質なサービスを受けられることがありますが、どこか活気を得られず、鬱々(うつうつ)しさを感じてしまっている人もいるかもしれません。 【恐怖!】食べると「死に近づく…」 日常的に食べている食品10選を一挙紹介! 一方で、やりたいことに妥協することなく、周囲を気にかけつつも自分の心に正直に生きている人がいます。その一人が、俳優・草笛光子さん(90)ではないでしょうか。1933年10月22日に生まれた草笛さんは、今年5月にエッセー「きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話」(文藝春秋)を出版し、“国内で最高齢”の主演作となり、キャリア初となる単独主演映画「九十歳。何がめでたい」が6月21日に公開されるなど、さらなる輝きを放っています。また、X(旧ツイッター)やインスタグラムなど、SNSでも積極的に情報を発信するなど、現代文化も取り入れた活動をしています。本記事では、私たちが生きるヒントを草笛さんの生き方から探ってみたいと思います。
細かいことを気にしない大胆さ。行動を起こすことで道は開ける
草笛さんの品格やりりしさ、美しさに心を奪われる人は芸能界内外を問わず、多くいると思います。ビビットカラーのファッションを着こなし、りんとしていながらもおおらかさを感じられる姿は、年代を問わず、多くの女性たちの憧れの的です。俳優の天海祐希さんは、草笛さんについて、中世ヨーロッパの貴婦人。こんなに品格のある方はいらっしゃいませんと語っていたことがありました。 華やかなステージで活躍してきた草笛さんですが、戦争を体験してきた一人です。同エッセーで、戦時中は疎開や空腹を経験し、終戦後はフェンスの向かい側で遊ぶかわいらしい洋服を着たアメリカ人の女の子をもんぺ姿でながめたこともあったとつづっています。 戦後、草笛さんは母親の洋裁店の手伝いも行っていましたが、父からの勧めで勉学にも励み、名門校・神奈川県立横浜第一女学校(現・横浜平沼高等学校)への進学を果たします。在学中、松竹音楽舞踊学校の試験をこっそり受けました。両親には芸事の道を反対されたものの、説得に成功。1950年、松竹歌劇団に5期生として入団し、8年後には冠音楽バラエティー番組「花椿ショウ・光子の窓」(日本テレビほか)で司会を務め、人気を博しました。 草笛さんは国内におけるミュージカルの発展にも貢献し、女優としての道を自ら開いてきました。草笛さんが松竹歌劇団に入団した頃には宝塚唱歌隊(現・宝塚歌劇団)がすでに発足していたものの、国内におけるミュージカルがこれから発展していこうという時期でした。彼女は1959年の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」 をはじめ、数々のステージに立っていますが、自分自身で役をつかみとったステージもあります。 1963年の「コンサート形式によるミュージカルの夕べ」では、彼女の行動力や大胆さがなければ実現しなかったものです。当時としてはなじみのうすいブロードウェイ・ナンバーを紹介するステージで、作家の三島由紀夫さんが監修し、共演者にはフランキー堺さんもいます。草笛さんは自分が思い描く公演にしたかったためスポンサーをつけず、出演者や会場との交渉も彼女の事務所が行ったということです。さらに、東京文化会館(東京都台東区)での上演を切望した草笛さんは、この会館を貸してもらえるまで「どうしてもやりたいんです」と何度も頼み込んだといいます。結果的に、東京文化会館での公演を無事に終えられたものの、収支は赤字だったそう。お金のことはどうにかなると、当時からポジティブに考えていたようです。 また、1969年初演のミュージカル「ラ・マンチャの男」に、草笛さんはヒロイン・アルドンサ役で出演しています。この公演は彼女が日本でも上演したいと劇作家・菊田一夫さんに直談判し、上演権を取得してもらい実現したものです。草笛さんが自らつかんだヒロイン役であり、彼女の行動力がなければ実現しなかった公演といえます。 草笛さんは俳優として与えられた役をこなしてきただけでなく、主体的に動き、役を手にしてきた一面も持ち合わせた俳優です。 やりたいと願いながらも、周囲から声がかかるのを待ち続ける人も見受けますが、そのような姿勢では、いつまでたっても実現しないケースがほとんどだと思います。自ら声を上げ、周囲を巻き込んでいくことでこそ、手にできるものがあることを草笛さんは実体験から教えてくれています。“どうにかなるでしょう”とポジティブに考え、行動を起こしてみるのが彼女の生き方のポイントです。