山上の石垣に魅せられる米子城、山城っぽい平山城がコンパクトかつ堅固にまとめなければならなかった理由
(歴史ライター:西股 総生) ■ 実戦的な平山城 山陰本線の米子駅を下りて通りを少し歩くと、右手の小高い丘の上に立派な石垣が見えてくる。城好きなら、一気にテンションが上がること請け合いだ。はやる気持ちをおさえながら歩くと、ほどなく立派な石垣に行き当たる。米子城は、小高い丘の上から麓にかけて曲輪が展開する実戦的な平山城なのである。 【写真】二ノ丸表門跡の石垣。外枡形をこれほど鮮明に撮影できる城はなかなかない 城へは、二ノ丸表門跡から入るとよい。石垣造りの惚れ惚れするような枡形を入ると、ほどなく山道となる。平山城とはいっても、米子城は本丸以下の中心部と二ノ丸以下の山麓部との標高差が大きいので、中心部だけを見るとほとんど山城のようである。もっとも、道はよく整備されているので、スニーカーのような歩きやすい足回りで行けば、さほど労せず登ることができる。 米子の地に、総石垣造りの本格的な城を築いたのは中村一忠といって、中村一氏の息子である。中村一氏は、早くから豊臣秀吉に仕えて頭角を現し、山内一豊や堀尾吉晴とともに豊臣家の「中老」、つまり中堅クラスの幹部に位置付けられていた武将だ。秀吉の天下統一後は、駿府に14万5千石で封じられている。 慶長5年(1600)に家康が上杉景勝討伐の軍を起こすと、他の多くの武将たちとともに、これに従った。つまり、関ヶ原における東軍側となったわけだが、一氏本人は従軍中に急死してしまい、関ヶ原の本戦には息子の一忠が当主として参加した。この功によって一忠は加増され、17万5千石をもって伯耆国米子に封じられたのである。 関ヶ原で東軍に属した彼ら中老グループのうち、山内一豊が土佐20万石、堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石だから、だいたい同じくらいの石高で大坂から遠いところへ封じられた形だが、中村家は急遽代替わりした分、少しばかりケチられた感がある。
■ 米子城が山城っぽい理由 ただし、この転封を「静岡支社から山陰支社への転勤」みたいに、現代感覚で甘く考えてはいけない。伯耆や出雲は関ヶ原の前までは、豊臣五大老の一角だった毛利家の領地なのである。そこへ中老、つまりは格下の中村家や堀尾家が入って行くのだから、その緊張感はいかばかりであったろう。 松江の堀尾家より一回り石高の少ない、つまり動員兵力の小さい中村家は、城も松江城よりコンパクトに、かつ堅固にまとめなければならない。同じ平山城でも、どちらかというと平城に近い松江城に対して米子城が山城っぽいのは、こんな事情によるのだろう。 などと、築城のいきさつに思いを馳せながら山道を登ると、ほどなく中心部に入る虎口に着く。天守台の石垣が、目の前にそびえている。侵入者はここで、左右どちらに進むか決断を迫られるが、モタモタしていたら天守からズドン! というわけだ。 もっとも、左右いずれの道を選んでも、天守台に見下ろされる狭い通路を歩かされた挙げ句、厳重な構えの虎口を突破しなければ、本丸に入ることはできない。山麓の曲輪を破られ中心部に肉薄されてもなお、残兵を本丸に結集して徹底抗戦する … そんな設計思想がよくわかる縄張だ。 こうして厳重な米子城を築いた中村一忠ではあったが、慶長15年(1610) に弱冠20歳で急死してしまう。中村家は断絶し、米子には一時的に加藤氏が入ったが、ほどなく城は鳥取池田家の支城となった。 明治の初年の古写真を見ると、山上には望楼型下見板張りの五重天守が残っていた。考証的に天守の復元可能かどうかは別として、古城の景観のまま何も復元しない方が、この城には似つかわしいし、美しいと思う。城下から見上げるにせよ、城内を散策するにせよ。
西股 総生