【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 東京六大学野球の2年先輩・土井淳が語る"ミスタープロ野球"①
土井 もう、それまでとは別人のような活躍だったよね。でも、プロ野球に入ってから見せた派手なプレーはまったくなかった。当時は、「東京六大学こそが日本野球の本流だ」という意識をみんなが持っていて、「魅せる」というようなことは誰も考えていなかった。 ――そういう影響もあって、堅実さが求められていたんでしょうね。 土井 派手なプレーなんかは、もう許されない。そんな空気だった。とにかく、学生らしくと言われていたね。当時は、プロ野球よりも東京六大学のほうが高く評価される時代。各大学で活躍した選手たちは社会人野球のチームを持つ企業に進むことが王道だと考えられていたから。 ――土井さんはプロ入りする前に、長嶋さんと同じチームで戦ったことがあるそうですね。 土井 1955年秋のリーグ戦後にアジア野球選手権大会というのがあって、東京六大学の選手16人で日本代表としてフィリピンに行った。監督が明治大学の島岡吉郎さん。明治からは秋山と俺、立教からは2年生の杉浦と長嶋が選ばれていたね。当時、フィリピンはアメリカの影響を強く受けていたから野球も強かった。社会人野球の選手が出場しても勝てないから「東京六大学でいこう」となったんだよ。 ――そのチームに若き長嶋さんがいたんですね。 土井 そうそう。その秋に東京六大学で7勝した杉浦の投球フォームはものすごくきれいで、軽やかだった。同じアンダースローの秋山よりも腕が少し下から、ふわっと出てくる。だけど、ボールがものすごく重いんだよ。想像したのとは全然違った。「これはいいピッチャーになるな!」と思ったよ。 ――まだ下級生だった長嶋さんからはどんな印象を受けましたか。 土井 俺はキャプテンを任されていたからみんなのことをよく見ていたけど、長嶋も後輩らしくテキパキ動いていたよ。 ――道具運びをする長嶋さんの姿は想像できません。 土井 もちろん、文句も言わずにやっていたよ。当時は上下関係も厳しかったからね。島岡吉郎さんの厳しさはよく知られているけど、立教の砂押監督も島岡さんに負けないくらいにスパルタ指導だったらしいね。長嶋は砂押さんに鍛えられていたから、島岡さんとのコミュニケーションもまったく問題なかった。 ――日本は、開催国のフィリピン、韓国、台湾と2試合ずつ戦って6勝。見事に優勝を飾りました。 土井 長嶋の打順は記憶にないけど、クリーンアップだったかな? ホームランを打ったことは覚えているよ。 ――土井さんが大洋ホエールズに入団された1956(昭和31)年。3年生になった長嶋さんは春季リーグ戦で首位打者になり(打率.458)、4年秋のリーグ戦でリーグ記録となる通算8号ホームランを放ちました。 土井 長嶋は2年秋に初ホームランを打ってるんだけど、下級生の頃はホームランバッターというイメージはなかった。未完成で、「どれだけすごい選手になるんだろう」と思わせる選手だったことは間違いない。あの頃は神宮球場が今よりも広くて、ホームラン自体が少なかったから。神宮でホームラン=すごいという感じだったね。 第2回に続く。次回の配信は11/2(土)を予定しています。 ■土井淳(どい・きよし) 1933年、岡山県生まれ。岡山東高校から明治大学に進学ののち、1956年に大洋ホエールズに入団。岡山東、明治の同級生で同じく大洋に入団した名投手・秋山登と18年間バッテリーを組んだ。引退後は大洋、阪神にてバッテリーコーチ、ヘッドコーチ、監督を歴任。スカウト、解説者を経たのち、現在はJPアセット証券野球部の技術顧問を務めている。 取材・文/元永知宏