ニンテンドーミュージアム、宮本茂氏インタビュー。ミュージアムは新入社員やお客さんに「任天堂とは?」を説明するものも兼ねている
2024年9月25日、2024年10月2日にオープンを迎えるニンテンドーミュージアムの報道関係者向け内覧会が行われた。気になるニンテンドーミュージアムの中身については、別途掲載している下記のリポート記事をチェックしていただきたい。本記事では、内覧会に合わせて行われた、任天堂 代表取締役フェローの宮本茂氏のグループインタビューをお届けする。 【記事の画像(7枚)を見る】 インタビューはニンテンドーミュージアムの設立の経緯から始まり、宮本氏が考えていること、ミュージアムが持つ役割、そして、任天堂の将来像にも話が及ぶ貴重なものになった。本インタビューを読んだ方には、以前に宮本氏が“文化功労者”に選出された際に行ったインタビューも読んでいただきたい。 ――なぜミュージアムを宇治小倉に作ったのかを教えてください。: 宮本: 語れば長いんですが、皆さんだいぶ任天堂のことをご存知だと思うんで、「どうして任天堂がこんなものを作るんだ」と思われたとしたら、それは正解なんです。あまり自分たちの説明をしない。お客さんとは商品を通じてコミュニケーションする、とずっと決めてきて。だから、今回これを作ろうと決めたときにいちばん心配したのは、山内(任天堂の山内溥元社長)がいたら「そんなもんやめとけ」って言うやろなっていうことだったんですけども(笑)。 ここにいたったのは、まず何年か前からずっといろいろな資料を残してきたんですね。とくにアーケードゲームのころの資料などは、そもそもゲーム機が動かないと意味がないので、それを動く状態で置いておくというのがすごくたいへんで。 それ以外に、ゲームもライセンシーさん(サードパーティー)のソフトを含めると、毎年何百本って残っていく。そのパッケージなどをただ置いていてもしょうがないので、なんとか管理していかなあかんよねという話がひとつありました。もう一方で、毎年新入社員が100人から200人入ってくるので、僕は任天堂のことを説明をする新入社員セミナーのような講座を持っているんですが、だいたい2時間しゃべっていたのが2時間半になり3時間近くなっていくという膨大な話になってきて。そのほとんどが「任天堂とはなんぞや」という説明をする時間なんですね。 で、それなりにおもしろがってはくれるんですけど、20年くらいやっているともういい加減にそこを引退したいよなと思うようになってくるわけですが、そのときにしゃべっている話がニンテンドーミュージアムの展示のベースになっています。 あと任天堂の社員からも、開発の中でたとえばWiiを作るときにウルトラマシンの思い出があったり、ラブテスターという得体の知れない、“ふたりの愛情度を測ります”というとても怪しい商品、ああいうのを15000円で売っていたのかという思いもありますけれど(笑)、そういう商品にすごい思い入れがあったり、任天堂愛の強い開発者がたくさんいて、Wiiのときにはそういう人たちが積極的にいろいろな開発をしていってくれたんですね。それがいまの『ゼルダの伝説』などで300人、400人とかの人数で開発するようになってきて、さらに何千人というスタッフになってきたときに、果たしてそういった想いが残していけんのやろうか、引き継いでいけんのやろうかと。そういった“任天堂らしさ”というのをちゃんと維持していくようにせんとあかんよね、ということが任天堂社内でも話題になるようになってきたんですね。 そういうことを話しているときに、ちょうどここにあった宇治の工場をどうしようか、極端に言うともう売ったらいいんじゃないか、といった話しも出てきたんです。でもここは我々の工場の創業、思い出の場所なんで、なんとか残していきたいと模索しているところで、ちょうど「ミュージアムにしたらどうですかね」という話題が出てきたんです。鳥羽街道にも元々の本社があって、そこにするか宇治のここを使うかという選択肢があったんですが、結果的にこの宇治小倉のほうがバスのアクセスなどがいいこともあってここに決めました。だから、いろいろな諸条件が集まってできたんです。 任天堂の過去の資産を全部残して、それを通じて任天堂が何なのかを理解してもらうというのであれば、それなら社員だけではなく、いま親子3世代まで任天堂のことを知っている人たちが出てきてくれたので、その皆さんに見てもらって任天堂がわかってもらえたらいいなと。そうやってわかってもらって、ハイスペックとか、ゲーム機の性能をどうするかみたいな“ゲーム戦争”と言われたりする競争に任天堂を巻き込まないでほしいと(笑)。任天堂はいまの世の中のいろいろな技術を使って任天堂らしいもの作りをずっと続けていくし、ゲームに限らず映像もやっていきますし、いろいろなエンターテインメントのコンテンツを作っていく会社なんです、っていうことを理解してもらうのにいいきっかけかなというので作ってみました。一気にしゃべりました(笑)。 ――親子3世代、各世代にどのようにこの施設を楽しんでもらいたいですか? また、海外に同じような施設を作られる予定はありますか? 宮本: まず3世代は自由に見てもらえばいいです。誰にどこを見てもらうっていうこともなく、自分に思い出があるものを見ていただけたらいいですし、どちらかというと僕らがそこでおもしろい発見ができたらもっといいかなとは思います。 展示のすべてをローカライズしているわけではないんですが、海外の人にも見てもらうことを前提に、できるだけ見てわかる展示に徹しています。体験コーナーも、たとえば百人一首なんて日本語のものをやっていいのかという考えもありました。百人一首協会からは怒られるかもわかんないですが、本来は字札が取り札なのに絵札を取り札にして、しかもお姫さんとかお坊さんとかを踏んで歩いているという(笑)。そういうことをやって、そこでいろんな体験をしてもらって、グローバルにいろんな人たちが「任天堂はおもしろいことを、インターフェースも含めてわかりやすく使いやすく、おもしろさを伝えることが上手な会社なんだな」と思ってもらえればいいなと思って作っています。 さっきお話したように、このミュージアムはビジネスで展開しているのではなくて、 任天堂のことをわかってもらうため。任天堂の社員が任天堂を理解するためという目的で作っているので、あちこちに展開するつもりはまったくありません。どちらかと言うと、この中でもうちょっとこれからどう広がっていくのかを考えています。たとえばいま取材をしているこの部屋は、僕が勝手にアートギャラリーと呼んでいまして、たぶん端からマリオのドットやコースの地形のラフスケッチや最終スケッチが並んでいって、ぐるっと回ると『スプラトゥーン』や『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』などの新しいタイトルのイラストなどが飾られる場所になっていくと思います。将来的には、これから映像タイトルが増えていったら、どこかで映像を見てもらえるようにしたらいいのではないかといった風に、任天堂の展開に合わせて増殖していくと思います。 ――博物館内の展示エリアの中で宮本さんが直接設計したものや、宮本さんにとってとくに思い入れの深い記念的な展示品はありますか? 宮本: どれに思い入れがあるかを午前中の取材でも聞かれたんですが、とても悩みまして。意外とどれって限定できないなと。確かに僕は業務用の『ドンキーコング』を作り、そこからファミコンに移って、それらも思い出深いんですが、それ以降の各ハードの設計をしていくときのコンセプトもすべて思い入れがあるので、あまり特定できないんですね。それで、設計という話しに限定すると、業務用の『ドンキーコング』は社外のプログラマーといっしょに筐体やイラストも含めてほとんど全部を設計しましたね。あと(ファミコン以前のゲーム機の)『ブロック崩し』や『TVゲーム レーシング112』などの展示もあると思いますが、あれは入社当時にした仕事で、僕は工業デザインの出身なので筐体の設計までしていますね。ただ、それだけでなく、すべてに思い入れがあります。 各ハードウェアの展示の裏側はそのハードのコンセプトに関する展示になっているんですけども、そのハードで任天堂が世界で初めてやったこと、任天堂がチャレンジしたこと、多少無理をしながらも挑戦したこと、このハードで初めて生まれたキャラクター、そのハードのテーマ、ニンテンドウ64だったら“ゲームが変わる。64が変える。”みたいな、心意気などが書いてあります。ご興味があれば、ゆっくり見ていただければと思います。 個別の展示という意味ではちょっと離れますが、大型のコントローラーがある1階のフロアの横にコントローラーだけの展示をしている部分があります。ここが“コントローラーの進化”という内容で、新入社員研修でもやるんですけども、業務用の『ドンキーコング』から始まり、ゲーム&ウオッチにどう移植しようかということで十字ボタンが生まれて、それがファミコンでプラスの形をした十字ボタンがジョイパッドのスタンダードの原型になっていき、スーパーファミコンではLRボタンが付いて、ロクヨン(ニンテンドウ64)でアナログのスティックが付くと。そして、Wiiではモーションコントローラーやポインティングなどいろいろな技術を出していた。ほとんどが世界初、ゲーム機では初めてですということをいちおう僕らのプライドにしていて、そこに取りまとめてありますので、よかったら見ていってください。 ――このミュージアムでの発信を、任天堂の中長期の成長戦略にどう活かしていくのか、どういった位置付けになるのかをお聞かせください。 宮本: 倉庫で眠らせておくのがもったいないので、こうやって社員も含めてみんなが見える場所に出したということがいちばん大きな目的で、中長期的な戦略とはあまり関係がないんですね。ただ、こうして3世代のいろいろな人たちにこのミュージアムに来てもらって、「任天堂ってふだん言われているゲームの競合メーカーとか、新しい先端の技術とは全然関係ないところにある会社なんだな」と思ってもらえるのがいちばん大事なことだと思っています。 もちろん技術研究もします。いままでアナリストさんとかいろいろなところから、「どうしてネットワークをやらないんだ」とか「モバイルはどうなんだ」、「先端のチップをどうして使わないんだ」など、いろいろなこと言われてきましたけども、冷静に展示を見ていただくと、ちゃんとやってるじゃないかと。けど任天堂はいまが売りどきじゃないっていうことを見て、いちばん適正な売りどきが来たときに商品化しているという歴史が見てもらえると思うんですね。それを見ることで任天堂を信用していただく。 株主の皆さんにもIR的にも任天堂を信用して我々に任してくださいという、ある意味での中長期展望になりますかね。 ――USJでドンキーコングエリアが新設されたりと、任天堂のIPに触れる人口の拡大を目指す中でニンテンドーミュージアムというのは、非常に有効な手段だと感じます。今後、その任天堂IPの拡大を目指す中で、どのような企業像を目指していくのかをお聞かせください。 宮本: そうですね。この2階の外側の壁にキャラクターの展示がありまして、1階のウェルカムゾーンにもたくさんのキャラクターを置いています。(このミュージアムは)いままでの商品やハードウェアの展示を中心に作ってきたんですけども、やっぱり任天堂全体を理解してもらおうと思うと、そのIPを見てもらうのがいちばんかということで、そういう(ウェルカムゾーンなどの)場所を作ってきました。で、いまはこのIPを知ってもらって、任天堂のゲームに戻ってもらうという、任天堂のゲームへの窓口としてIPやテーマパーク、映画があるように動いています。でももっと将来的に言うと、その任天堂というIPを含めた大きなブランドがあって、その中に当然ゲームはあるけれど、もしもっと魅力的なものが作っていけたら、その中にもっといろんなものが入ってくるというイメージで考えていけたらと思っています。 1階にあるキャラクターが配置されたパネル。 ただ、やっぱりみんながしっかり覚えているのはIPなんですよね。ゲームは新しいバージョンに変わっていったら、もう動かなくなっていく。これがすごい寂しくて。映像を始めたのも、じつはバーチャルコンソールでしか僕らの作ったものは遊べなくなっていくのかっていう寂しさがあって、ミュージアムで遊べるようにしても限界がありますし、一方、映像だといつまで経っても残っているというのが理由のひとつですし、そういったものがどんどん増えていって、任天堂全体が大きなブランドになるといいなと。僕いまいつも言っているんですが、「任天堂を選んでもらえる理由を作る」ということをテーマにしていまして。子どもが小学1年生になったときに「じゃあ任天堂の何を買おう」という“任天堂のゲームを買う”ではなく、「小学生1年生になったら任天堂を買ってあげる」という世の中になったらいいなと思ってます。 ――ニンテンドーミュージアムのロゴの色味はどのように決まったのでしょうか? 京都の景観条例などの配慮があるのかとも思ったのですが……。 ニンテンドーミュージアムのロゴ。 宮本: あまり深い意味はないんですよ。任天堂がこのスクエアタイプのロゴで展開していくというのは、赤いロゴにした時点で決めていまして、それからいろいろ展開してきました。ニンテンドートウキョウなどのショップも、スクエアタイプの赤に白文字で展開しています。ただ、あの赤いロゴはセールスのために使っているもので、事務関係のものにはグレーを使っているんです、今回のニンテンドーミュージアムは歴史展示であるということから真っ赤ではないな、というところまでは決まったんですけど、じつは僕は「パープルにしてくれ」と言っていました。 京都なんだからってことで、単純にパープルの任天堂をやりたかったんですけど、現場としては建物全体をシックに抑えているのでパープルは色がキツイと。それでこのロゴの色ですが、じつは“ミュージアムグレーパープル”と呼んでいるんです。僕が「パープルじゃないやないか」って言うから言い訳のようにグレーですけどパープルと(笑)。 ――さまざまな作品がこの京都から生み出されたということで、娯楽を生み出すうえでの京都という土地の魅力ってどのように感じますか? 宮本: これはね、いろいろな視点であちこちでお話することがあるんですが、とくに一般に言われる京都の文化を大事にするとか、京都の伝統を守って何かを作るとかっていうものではないんですね。最初に言いましたけど、山内がミュージアムを作るって聞いたら「やめとけ」って言うと思うんです。それくらい山内はとにかく「おごるな」で。京都はやっぱり盛者必衰というか平家物語ですし、方丈記は“ゆく河の流れは絶えずして”で、そんなフレーズが好きやなと思うのは京都にいるからかもわかりません。けど、僕らもその中で流れているんですけど、淀まずにずっと流れている状態をどう維持したらいいのか、それから"おごるな”。必ず栄えたものは滅びると、そのためには新しい栄えたものを作っていく。この考えかたっていうのは、エンターテインメントの会社にはいちばん大事なことかなというので、山内の教育を受けたものとしていちおう考えています。 それからもうひとつは、京都に僕がいたことで、一時期30歳くらいになると「京都の田舎にくすぶっているとデザイナーとしてダメになる。だから東京に出ていかなきゃ」とか、いろいろなことを言われたり、自分でも思ったりしたことがあるんですけど、そのはしかのようなころを過ぎて、40歳くらいまでここで仕事をしていると、なんか妙に、30歳くらいでいっしょに仕事を始めた仲間が全部いっしょにまた仕事をしていて、なんか作ったものが世界で売れていると。それをなんでかなと思うと、東京に行くと東京で流行っているものに誘われて、それで日本で売れるものを作る。で、逆にそれをすることで、日本でしか売れないものを作っていることにわりと気づかないのではないかと思うようになってきました。だから僕は東京ローカルって社内では言っていて。京都がグローバルというのではなく、東京はローカルであって、そういう思想で(東京に)行くんなら、せめてニューヨークって言えよっていう風に思うようになりました。で、そういうことをどうして感じて言えるようになったかというと、京都にいるコンプレックスがなかったんですね。 たぶん僕は丹波の田舎の出身なので、田舎のコンプレックスを持ち続けていたら「いずれは東京へ」とか「東京でどうだ」、「俺は東京へ来たぞ」と思うかもわかんないですが、ここでのんびり仕事できたっていうのは、京都にいるとそれなりの人もちゃんと残ってくれるし、京都に好きな人が働いていて、それで京都の中で何をするかというと、まわりに踊らされずに自分たちが信じるものを作る。その結果、けっこう世界中で売れてるやないって。そうすると、じつはいちばん内部にあるものがグローバルで、グローバルって言われているものは別にグローバルじゃないんやないかという風に、40歳くらいになると思うようになって、いまはもうそれを若手に吹き込んでいます。ミュージアムと関係がないですね(笑)。 ――任天堂の長い歴史の中でいろいろな改革や変化があったことを感じますが、このミュージアムを見て、将来の任天堂へのヒントを得られるものはありますか? 宮本: さっきのIPに関わる部分というのはまた新しい構造になっていくと思うんですが、基本的に見ていただいてわかるように、その50年、60年くらい前からの遊びを、その世代に合わせてアップグレードしたり、リニューアルしたりしている。で、この先にみんな年をとっていくので、子ども、小学生時代は6年しかないわけで、その時代に経験することって毎年くり返していくんですよね。そうすると、そこの世代に合わせたレイヤーのものというのはつねに存在すると思っていて、それだけでもけっこう大きなビジネスになるかなとは思っています。 あとはここまで積み上げてきたので、その流れからあまり逸脱していないものをみんなが作ろうとすることで、任天堂らしさっていうのができていくと思いますし、一方でいま言っていただいたチャレンジをいつもしているので、変革を望まないのではなく、チャレンジで新しいものを作っていくけど、ベースに流れているコンセプト、それは家族であったり、遊びであったり、わかりやすさであったりで、そこはちゃんと守って作っていこうというのが社員に根付いていけば、ずっと新しい任天堂が膨らんでいくと期待しています。引退の言葉みたいですが(笑)。 ――ファミ通です。2階の展示では解説の文章が少なく、見てわかるものにされているように感じました。そのあたりは、やはりグローバルな来場者を意識しているのか、また解説などの文章があったほうがいいのではないかといったお話があったのか、といった点をうかがえますか? 宮本: 将来もっとガイドなどが必要になるんじゃないかという話は出ていますし、より詳しい解説を聞きたい人がいるというのはその通りだと思うので、そのあたりはまたこれから考えていこうと思っています。ただ、すべて用意するとものすごいボリュームになるなという心配があるのと、来場者の皆さんがすべてに興味があるわけではないだろうと。それから、一般的に日本にいると美術館とか回ってくる美術展がじっくりと見る構造にはなっていなくて。批判するわけではないですが、入り口のあたりに人が大量に溜まって、あまりおもしろくない歴史年表を読んでいるということが多くなるんですよね。それで奥に行ったら大事なものがわりと簡単に見られるとか。ああいう構造の展示にしたくないなとはすごく思ったんですね。そういったこともあって、入ったら自由に見られるようにしよう、くどくど解説せずに自分で感じてもらうことを大事に作ってみようという形で仕上げたものになっています。ですが、いずれちょっと詳しい解説図録を作ったりと、そういったことはしていきますので、いずれファミ通さんにもご協力いただけたらと思います。 ファミ通 ありがとうございます。その際にはよろしくお願いします! ――こちらのミュージアムは館長がいないという認識でよろしいでしょうか? 宮本: はい。とくにいないです。けど、ミュージアムの専属スタッフっていうのはいまして。そのマネージャーが何人かいるので、どうしても館長という肩書きが必要なときは出てくると思います。 ――リクエストなんですが、ずっと館長を置かないのがいいんじゃないかなと思いまして。宮本さんをはじめとした、人の名前と人の写真がほぼない状態でここまでのミュージアムができるということは、これまでに例のないものだと思いますので、いっそのこと一生涯館長なしで作っていただきたいなと。 宮本: なるほど。ありがとうございます。僕、名誉館長になりたいなと思ってたんです(笑)。いまおっしゃっていただいたのはすごく大事で、ちょっと山内の色紙を置いたりするんですけども、横井さん(任天堂の元スタッフの横井軍平氏。十字ボタンなどを生み出した)の名前を出すかとか、ものすごく悩みました。で、結果的にはいっさい個人を出さずに商品で全部コミュニケーションしようと。ただ、ちょっと言い訳がましい。じつは玄関入ったところの左手に僕のサインがあるんですよ。あれは唯一個人名が出ているので、僕はすごく心苦しいんです。 あれは建物を建てるときに基礎にサインをするんですが、 みんなでサインをして最後埋めるので剥がしたときに出てくるというものとして書いたんですね。誰もその後は書かずに、「せっかく書いてあんのやから見せたらどう」っていうので、窓をくり抜いて見せています。ここ数ヵ月、あれを何でふさごうかという話をずっとしているんですけど、「いや、あれはあってもいいんやない」っていう社内の人も多くなってきたので、いまのところ残しています。申し訳ないですけど。それ以外には、個人名はほとんど出てこない構造にしています。 ――このオープンに合わせて地元の宇治市を取材していますが、期待している声が多く聞こえてきました。京都にとって、地域にとってどういう施設になっていきたいかという思いをお聞きできますか? 宮本: ここを建てるときに工場を使おうっていうのは、決まったコンセプトとしてありました。派手なお城みたいなものを作るのではなく、任天堂らしく。候補としては旧本社があった鳥羽街道もあって、けっこう議論したんですが、バス等の交通の便も良さそうということと、もうひとつはこの小倉エリアはだいぶ高齢化が進んでいまして、我々も工場を最初に持った場所なので、そこが活性化するならぜひとも協力したいという思いもあり作りました。宇治市さんや近鉄電車さんにも非常にご協力いただいていまして。 これからちょうど近鉄小倉の駅前のロータリーが都市計画で準備されていて、それができるとこのミュージアムまでまっすぐお客さんが来れることになり、地域といっしょに近隣の方に嫌われない場所になれるように展開していきたいと思っています。 まだ近鉄の小倉駅はバリアフリーになっていないんですよね。それでちょっと迂回した踏切を通るようになっているので、これも近い将来バリアフリーにしていただけることになっています。 ――ミュージアムには任天堂の歴史で生まれた製品が展示されていますが、これから生まれる製品も今後追加されていく予定なんでしょうか? 宮本: もちろん展示して残していく価値があると思われるものが作っていけたらの話なんですけども。ただ、いまの段階でミュージアムの内部は現状の展示でほぼ埋めているので、何かをズラして新しく追加するよりは、将来もう少し溜まったら場所を考えるとか含めて展開していけたらと思っています。 ――あくまでもいままでの歴史で、これからもし新しい資料を展示するとなると、新しい用地を用意されるということでしょうか? 宮本: そうですね。いまのコンセプトで行くと新しいものはどこかに保存しておきますが、それをどこかで見せないと皆さんがもう忘れてしまうな、というころになってからになると思います。先ほどもお話をしましたが、いま取材をしているこの場所はアートスペースにする予定で、現在はミュージアムの中に『スプラトゥーン』などの展示はなく、生まれてから20年以上経ったものばっかりで、Switchのハード以外は20年以上経ったものばっかりなんです。ただ、やっぱりいまのお客さんにとっては『スプラトゥーン』がないのはどうなってんだと言われると思うので、このあたりにそういうものはフォローしていこうと思います。でも、まだ現存の機会が市場にあるようなものはミュージアムの対象ではないと思っています。 ――ミュージアムの1階で体験をするのに使うコインが10枚の設定になっていますが、10枚だと1回ですべての体験ができません。これはどういう設定なのでしょうか? 宮本: フレキシブルに対応できるということでコインシステムにしようというのは、みんなで決めました。ただ、これは本当に運営してみないとわからないんですが、僕は長蛇の列というのが大嫌いで、どんなに有名なラーメン屋でも5人以上並んでいると並ばないっていうくらいなので、ミュージアムもスムーズに遊んでほしいなと思っています。ですが、1日で大勢の人には入ってもらわないと、いちおう採算の問題もありますし。と、そういうところでいまとりあえずの数字を決めて運営しています。様子を見ながら少しコインの枚数をサービスしたりしてもいいかなとは思っているんですが、そのあたりはまだこれから運営側が決めていくと思います。 いま全部遊んでいただくとなると、1日に500人くらいしか入ってもらえない。でも、やっぱり最低でも1500人から2000人くらいは入っていただけるようにして運営したいと思うので、いまのコイン枚数でもかなりきびしい状態になるのは覚悟で試していってます。 ――リピーターと言いますか、何回も来てほしいというイメージがあるのかと思ったのですが……? 宮本: それもあります。たぶん一度じゃ見切れないですよね。いくつか見てもう満足したって帰るけど、いろいろなものを見逃していると思いますし、もう1回来ていただくことは歓迎で、できるだけ入館料を安く抑えようという、 これもかなり努力はしたつもりです。 宮本茂氏のインタビューを読んだうえで、ニンテンドーミュージアムのリポートを読むと、いろいろな展示の持つ意味を感じることもあるだろう。ぜひニンテンドーミュージアムのリポートや、過去の宮本茂氏のインタビューもチェックしてほしい。