楽屋に警察が入ってきて…「全見せ上等」の伝説のストリッパーを悩ませた「公然わいせつ罪」と「衝撃の逮捕劇」
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第35回 『昭和を彩ったストリッパーたちが「陰部晒し」の「チキンレース」に参加した衝撃の理由』より続く
はじめての逮捕
一条さゆりが初めて、公然わいせつ容疑で逮捕されたのは1963(昭和38)年7月15日。デビューから5年になり、気前のいい脱ぎっぷりが評判になりかけていた。 「名古屋の港ミュージックに出ていたときやった。そのころはかなり人気が出ていました。当時はどこの公演でも、警察の手入れが厳しくなっていました」 63年から64年にかけ、一条は中部地方を拠点に舞台に上がっていた。この地域では、吉田興行が数多くの劇場を持っていた。社長の吉田伸光はサーカスのトランペット吹きから身を起こし、全国にストリップ劇場を展開していた。「踊り子は吉田興行の劇場に出演して初めて一人前」と言われるほどだった。一条は名古屋の鶴舞劇場や岐阜セントラルなどでの出演が多かった。
公然わいせつの「基準」
公然わいせつは1880(明治13)年に刑法で規定された罪だ。不特定または多数の目に触れる状態で、わいせつ行為をするのを禁じている。どの程度を「わいせつ」と考えるか。それには、社会状況やその時々の市民の受け止め方が影響する。 戦後直後の劇場では、裸の女性が動いただけで「わいせつ」とされ、60年代になると陰部、陰毛を見せる、見せないがその基準の一つになっていた。 取り締まりの基準には地域差もあり、当時の名古屋や岐阜の警察はヘアの露出に特別、厳しかった。他地域では問題にならない程度でも、中部地方では許されない。ストリップ興行が暴力団の資金源になり、警察がそれを断とうと厳しく対応していた面もある。 ちょっとヘアが見えただけでも問題になるため、劇場主や照明係、踊り子はいつしか捜査員と親しくなる。取り締まりは年中行事で、半ばなれ合いのようでもあった。一条の記憶では、捜査員とのやりとりも実にのんびりしていた。 警官が楽屋に入ってきたかと思うと踊り子に言う。 「はい、皆さん、支度して、支度して」 「支度って、何をするのよ」 「警察に行くよ。さあ、行くで。早く支度して。こっちも忙しいんだから」