《ブラジル》渋沢栄一の隠し子ブラジル移住説? あちこちに残る「痕跡」や「足跡」
1世紀前から南米に目を向けていた渋沢栄一
日本では新紙幣の発行が3日から始まり、1万円札の顔には日本の資本主義の父で実業家の渋沢栄一(1840~1931年)が選ばれた。その渋沢栄一とブラジル日本移民の間には、深い関係があることは案外知られていないのではないか。 渋沢栄一は1840年、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれ、日本初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立。明治政府で大蔵省の一員、その後は実業家として現在の日本の国づくりに辣腕を振るい、1931年、惜しまれつつ91歳でこの世を去った。 その間、渋沢が設立に関与した企業は500社を超え、その多くが存続し、例えば東京証券取引所、王子ホールディングス、帝国ホテル、東京海上日動火災保険、東京ガス、東洋紡、東日本旅客鉄道、東京電力ホールディングスなど今の日本経済の骨組みを作った。 と同時に、彼はブラジル移住の最初の基盤も作った。明治の日本の課題であった人口増や貿易などを考えて、100年前に南米の将来性を見越してブラジル移住事業を進めた。今でこそ「グローバルサウス」などと言われているが、渋沢の先見性は卓越していた。
ブラジル各地に残る渋沢栄一の足跡
渋沢栄一のブラジル移住への貢献を三つ選ぶとすれば、(1)ブラジル最初の日本人植民地であるイグアペ植民地(桂植民地など含む)を開設した伯剌西爾(ブラジル)拓植株式会社創設、(2)アマゾンに日本人植民地を拓いた南米拓殖株式会社創設、(3)移民の教育を目的とする海外植民学校の創立に関わったことだろう。 111年前、1913年11月に入植が始まったブラジル最初の永住者向け移住地「桂植民地」を手始めに、レジストロ地方で植民事業を行った「伯剌西爾拓植株式会社」の創立は大きい。 1908年に笠戸丸を運行させた水野龍の皇国殖民会社は、農業労働者という形でブラジル移住の「狭いけもの道」を切り開いた。それを、日本から投資された資本で永住型の移住地建設という「アスファルト舗装された街道」に変えたのが同拓殖会社だ。 1910年に青柳郁太郎は、農商務大臣大浦兼武ら賛同者の出資を得て東京シンジケートを設立してブラジルに渡り、1912年に4年間で日本人農民2千家族を誘入定住させる契約をサンパウロ州政府と結んだ。その契約を引き継いだのが、桂太郎首相の後援で渋沢栄一を創立委員長として設立された伯剌西爾拓植会社だった。だから最初の定住地の名前を「桂植民地」とした。