【対談連載】紀文食品 代表取締役社長 堤 裕(上)
【浜松町発】紀文食品は、1938(昭和13)年創業の老舗企業であり、大相撲の呼出しの着物に染め抜かれた「紀文」の文字は、誰しも一度は目にしたことがあるだろう。今回お邪魔した日の出オフィスは、JR浜松町駅の南側、ウォーターフロントに位置している。そのエントランスホールで目に付いたのが、工芸家青柳豊和氏による木製の「おでん種」。とてもリアルで可愛く、思わずほしくなる。でも、ここに展示されているものだけで、販売はしていないとのこと。少し残念だが、同社の商品への愛情が感じられた。 (本紙主幹・奥田芳恵) ●活気ある職場で 若い頃からさまざまな経験を積む 芳恵 紀文食品の社長に就任されて7年目ということですが、新卒でこちらの会社を選ばれた理由は? 堤 私は大学でマーケティングを学んだのですが、私の入ったゼミの先生が紀文のコンサルタントもやっていて、その紹介で入社したんです。 芳恵 当時から、紀文といえば有名な食品ブランドだと思いますが、そうしたことも踏まえて入られたのですね。 堤 ところが、紀文のことをあまり認識していなかったんですよ。私は静岡県湖西市の出身ですが、湖西市というのは浜名湖の西に位置しており、もう少し西に行けば愛知県の豊橋市です。その豊橋にヤマサちくわという練り製品の会社があり、その地区では圧倒的に強かったんです。その印象があったせいか、大学時代に2年間、東横線の渋谷駅を毎日利用していたのですが、改札口の上にあった時計に紀文のマークが掲げられていることにずっと気づきませんでした(笑)。 芳恵 それは意外ですね。それで入社されて、はじめはどんな仕事に就かれたのですか。 堤 入社1年目は、名古屋三越の中にある売り場に配属されました。2年目は名古屋支店に移り、先輩社員として研修中の大卒の新人20人を預かり、名古屋でローラー作戦の指揮を執りました。 芳恵 ローラー作戦ですか……。 堤 ローラー作戦というのは、それぞれ担当エリアを決め、20個ほどの商品を詰めた保冷バッグを持って、そのエリアの小売店を一軒一軒回って商品を紹介するんです。私もその前年に、新人研修の一環としてこのローラー作戦に参加しています。 芳恵 将来の幹部候補生が、そうやって小売店の生の声を聞くことは、メーカーにとって大事なことなのでしょうね。ところで、当時の紀文はどんな雰囲気だったのでしょうか。 堤 (昨年6月に逝去された)前会長が社長に就任した頃で、まさに会社が変わろうとしていく時期でした。かまぼこやちくわなどの練り製品だけでなく、豆乳、真空パックのうなぎ、玉子どうふなど新たな商品を開発し、いろいろなことをやっている活気ある会社でしたね。 芳恵 とても働きがいのあるイメージが伝わってきます。その後はどんなキャリアを積まれたのでしょうか。 堤 百貨店の店舗に戻ったり、支店で豆乳のシェアを伸ばす算段をしたりしていたのですが、入社3年目に全社的な経営戦略の変更に伴い名古屋支店が東海紀文というエリア子会社になりました。つまり、それまでの営業支店に工場や管理部門の機能を持たせて地区で一番を目指し、本社一極体制からの脱却を図ろうとしたわけです。 芳恵 そのエリア子会社では、どんな役割を担われたのですか。 堤 マーケティングの責任者を6年ほど務めました。テレビCMをつくったり、商品開発にも携わったりするなど、この時期は、自分がやりたいように仕事を進められましたね。そのほかにも、ちびっこ相撲、鈴鹿8時間耐久レース、女子プロゴルフトーナメントなどのイベントに協賛したりと、さまざまなことを手掛けることができました。 芳恵 とても充実したお仕事ぶりが伝わってくるようです。 ●ビジネス人生の転機となった 沖縄の合弁会社への出向 芳恵 ところで、堤さんは大変な読書家だと伺いましたが、本を読むのが好きなのは幼い頃からのことですか。 堤 私はどちらかというと運動オンチで、外で元気に野球やサッカーをするようなタイプではなく、中高生のときは「ひきこもり帰宅部」だったんです。 芳恵 ひきこもり帰宅部……、ですか? 堤 ひきこもりといっても、学校には行っていましたよ(笑)。でも、部活動に参加しないから時間が余っているわけです。それで家に帰ってからは、いろいろな本を読んでいたんです。 当時、旺文社文庫という内外の名作を集めた文庫本があって、その100冊セットを父が買ってくれたのですね。それをずいぶん読んだ覚えがあります。 芳恵 お父さまも本好きなのですね。 堤 そうですね。父は電力会社の技術者でしたが、本は好きで時代小説などを読んでいました。もっとも私は、時代小説はあまり読みませんが……。 芳恵 とはいえ、そういうお父さまの影響で本好きになられたのですね。 堤 ずっと家の中で本を読んでいても、外に出て体を動かしてこい、といったことは言いませんでしたね。ただ、勉強しろとは言われましたけれど。 芳恵 なるほど。インドア派を容認されたことで、心置きなく本が読めたと。ちなみにいまは年に何冊くらい読まれるのですか。 堤 いまは忙しくて、年に100冊くらいしか読めません。 芳恵 それでも十分多いと思いますが、その原動力はどこにあるのでしょうか。 堤 中学・高校の頃は、先ほど申し上げたように「ひきこもり帰宅部」ですから、時間は十分にあります。大学時代も同様です。でも、就職してからはなかなか読書に充てる時間がなくなります。それで読書量は落ちてしまうのですが、あることをきっかけに、私は自分の生き方の指針を本に求めるようになったのです。 芳恵 その「きっかけ」とは、どんなことだったのでしょうか。 堤 当社は沖縄の本土復帰前から現地資本との合弁企業を運営していたのですが、私が39歳のとき、その海洋食品という子会社に取締役として出向しました。 紀文本体の業績がとてもよい時期でもあり、私に場数を踏ませる意図もあって、新工場を建設するというタイミングで沖縄への赴任を命じられたわけです。 芳恵 営業、マーケティング、そして商品開発にも携わってきた堤さんに、さらに経験を積ませようということですね。 堤 ただ子会社とはいえ、重要な案件については出資企業双方の合意が必要で、紀文側の人間は私1人のため、その窓口にならざるを得ず、本社に対しても説明を行わなければなりません。これは、正直言って大変でした。 また、合弁企業の社長は地場のスーパーと新たに進出してきたGMSの両社と上手に付き合いたいという考えをもっていたため、新工場の一部を大手GMSのプロセスセンターに、残りを地場スーパーのための刺身加工場にしたのですが、刺身は魚といっても練り物とはまったく違うため扱いに慣れておらず、管理上の問題もあって大赤字を出してしまいます。 芳恵 それは、なかなかつらい状況ですね。 堤 この合弁企業で、私は工場長、新規事業の責任者、そして総務部長まで経験するのですが、そんな中で先ほど申し上げた「きっかけ」となる出来事が起こるのです。(つづく) ●ずっと書きためてきた読書記録と愛読書 本文でも堤さんと本との関わりをご紹介しているが、びっしりと細かな字で書かれたメモを拝見すると、何か凄みのようなものすら感じられる。記録を取り始めたのは「本が増え始めてから」とおっしゃるが、おそらく子どもの頃からの読書習慣がこの緻密なメモにつながってきたのだろう。そして、その膨大なリストから一冊選んでいただいた愛読書は、『神道〈いのち〉を伝える』(葉室頼昭著、春秋社)である。 心にく人生の匠たち 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長) <1000分の第357回(上)> ※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。