NHK大河「花燃ゆ」主人公の兄「吉田松蔭」とはどんな人物?
“知りたい病”の悪化
1853年、ペリーの黒船が来航すると、松陰の「知りたい病」が悪化します。象山は「開国して欧米の技術を吸収し、その後で伐てばよい」という開国&攘夷論を唱えていました。この師の教えが、ピュアな松陰の病をこじらせたのです。松陰は「敵を知るには、敵国に行くしかない」と考えたのでした。 翌年、再び黒船がやってくると、深夜、松陰は小船で近づき、艦内にしのびこみました。そして通訳相手に渡航許可を求めたのです。 「キミは何者だ?」「書生です。」 「書生とは何だ?」「書物を読む者、学問をする者です。」 「何のためにアメリカに行きたい?」「学問をするためです。」 しかしどれだけ粘っても、答えはノーでした。当時、密航は未遂に終わっても、死罪に値する重い罪でした。素直な松陰はこれに抵抗しません。策を弄すことなく自ら出頭し、地元・萩の牢屋「野山獄」(のやまごく)に送られたのです。 獄中でも、松陰の病は治まりませんでした。ある囚人に儒家の思想を説き聞かせると、たちまち評判となり、松陰の周りに多くの囚人が集まってきました。やがて看守も松陰の講義に耳を傾けるようになったのです。「獄舎」が「学び舎」に変わっていったのでした。お上のはからいにより、松陰は1年2か月で解放されましたが、その間、300冊以上の本を読破したといいます。
狂熱な「尊攘」、そして……
生家にもどると「教えたい病」を抑えきれず、親族や近所の人を相手に儒学・兵学の講義を始めました。叔父の塾を引き継いだ「松下村塾」には噂を聞きつけ、多くの有能な若者が集まってきたのです。 久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら、事を成す幕末・維新の「英傑」たちです。塾生には、貧農の子やグレた若者もいました。しかし松陰は区別することなく、膝をつき合わせて指導したのでした。ちなみに、松陰の妹で2015年大河「花燃ゆ」の主人公・文(ふみ)は、久坂玄瑞に嫁いでいます。 開塾から1年ほどがたった1858年6月、松陰を激怒させるニュースが飛び込んできました。大老井伊直弼が天皇の許しを得ないまま、アメリカと日米修好通商条約を結んだのです。日本にとって不平等な、屈辱的な中身の条約でした。