南シナが再び緊張「中越戦争」とはどんな戦争?
5月7日、ベトナム政府が「ベトナム巡視船に中国船が衝突を繰り返した」と発表して以来、ベトナムと中国の間での緊張はエスカレートしています。チャイナ・デイリー・メールは、反中デモで死者が出た直後の5月16日、人民解放軍の戦車部隊などが国境に近い広西チワン自治区への移動を開始したと報じました。両国は1979年の中越戦争で争った経験があり、今回の事態にその再来を懸念する声もあります。中越戦争とは、どんな戦争だったのでしょうか。 【地図】中国が動きを活発化している南シナ海周辺
インドシナ半島の複雑な対立軸
中越戦争は1979年2月、中国のベトナム侵攻で始まりました。この時、中国は「ベトナムによるカンボジア侵攻に対する懲罰」を大義としました。 ベトナムの隣国カンボジアでは、ポル・ポト率いる共産主義勢力のクメール・ルージュが親米的なロン・ノル政権と敵対し、ベトナム戦争(1960-75)では「反米」で一致するベトナム共産党と共闘しました。しかし、両者の関係は必ずしも友好的なものでなく、その大きな背景には、 ・15世紀から黎朝ベトナムに圧迫されたこともあって、歴史的にカンボジアにはベトナムへの警戒感が強く、クメール・ルージュは中国共産党と友好的だったこと、 ・一方、ベトナムは歴史的に中国の勢力に直面してきたため、その反動でベトナム共産党がソ連共産党と友好的だったこと、 ・1950年代後半の「中ソ論争」以来、中ソの関係は悪化していたこと、などがありました。
中越戦争の“導火線”
1975年にベトナム戦争が終結し、同じ年にロン・ノル政権が打倒されると、両者の対立が目立つようになりました。 クメール・ルージュは急進的な共産主義思想に基づく強制労働と恐怖支配を実施。そのなかで、親ベトナム派幹部を次々と粛清しただけでなく、1975年5月には領有権を主張してベトナム領フーコック島に侵攻したことで、ベトナムとの関係は極度に悪化したのです。 この背景のもと、1977年4月に本格的な軍事衝突が発生。1979年1月、ベトナム軍はカンボジアの首都プノンペンを制圧し、親ベトナム的なヘン・サムリンを国家元首とする新体制を樹立しました。 これに対して、ASEAN(東南アジア諸国連合)や西側諸国だけでなく、自らに近い政権を倒された中国も強く非難。中国が「懲罰」を掲げてベトナムへ侵攻したのは、その約1ヵ月後のことでした。