これがなければ「光る君へ」は傑作になっていた…歴史評論家がどうしても看過できなかった7つの残念シーン
■汚物にまみれながら絶叫した最高権力者 道長の最期は藤原実資(秋山竜次)の『小右記』によれば、糞尿が垂れ流しの状態で、身内も直接見舞うのが困難なほどだった。そんななか背中のはれ物に針治療がほどこされ、道長の絶叫が響くなど、かなり悲惨な状況だった。 それがテレビでは描きにくいのはわかる。だから静かな死にしたこと自体は、許容されると思う。だが、道長は最期、みずからが造営させた極楽を象徴する九体阿弥陀像の前で、九体のそれぞれから伸ばされた五色の糸を手にして、息を引き取った。それほど極楽浄土への願いが強かった。 道長が死去したのは万寿4年(1027)12月4日だが、このころ恐れられていたのは末法の世だった。釈迦が入滅して2000年経つと、その教えだけが残って悟りは得られなくなるというのが末法思想で、当時、1052年には末法の世に突入すると信じられていた。道長も紫式部も、いわば怯えながら極楽浄土へ生まれ変わることを願っており、死に際して、もっとも強い願いはそのことにあったはずである。 当時の社会を覆っていたこの状況が描かれず、恋愛に置き換えられてしまったのは残念だった。 最終回のラストシーンで、ふたたび旅立ったまひろは、馬に乗った武者たちと遭遇した。その一人は双寿丸で、彼は「東国で戦がはじまった。これから俺たちは朝廷の討伐軍に加わる」と語った。その後姿を見ながらまひろは、心のなかで「道長様」と呼びかけると、「嵐が来るわ」と語った。 貴族の世が終わって武士の世が来る、ということを暗示しているのだろう。当時、その時代に向かって動きはじめていたことは否めないが、まだ摂関政治の全盛期であり、のちにそれが終わって院政の世が訪れ、武士が本当に力を持つのはその後である。当時の世相を覆っていたのは、戦への恐れよりも末法への恐れであって、これではこの時代の実相が誤って伝わってしまう。 したがって第1位として、武士の世を予感させるのは早すぎるといっておきたい。 ---------- 香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。 ----------
歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志