【競輪父子鷹】関係は“親子”から“師弟”に「涙の誓約書」から15年、郡司浩平の父・盛夫さんの溢れる思い
ーー父親から師匠へ…どんなところが今まで違いましたか? 盛夫 親子だったら朝、別に「おはよう」とか対してあいさつなかったのは何も言わなかったけど、誓約書を書いた次の日からは日常生活から何から、指差して「あいさつは?」とか靴を並べるとか、子どもだから家でだらしないところもあるけど、そういうところを見直させました。 ーー誓約書を交わしたら違う世界に変わった? 盛夫 内弟子じゃないけど、一緒に住んでいて四六時中そばにいますから。僕もその時はいっぱいいっぱいだったけど、浩平もいっぱいいっぱいだったんだと思う。だから「早く合格してやるぞ」と思ったのかな。 ーー競輪学校への合格はスムーズでしたか? 盛夫 1回目の時は1ヶ月くらいしか準備期間がなくて、一次は受かったけど、二次でダメだった。落ちた後、10月くらいからはメリハリを付けるために今年いっぱいは好きなこと、高校生活を楽しんでいいよ、と。免許を取りに行ったり、遊びに行ったり。自転車は乗らないよ、と。それが続いたのは1月過ぎまでかな。 ーー競輪選手を目指すと言ってきた時はどんな気持ちでしたか? 盛夫 正直、うれしかったよ。「やりたいことあるのか?」って聞いたら、警察官との2択でね。とりあえず1ヶ月乗ってみろ、と。1ヶ月でダメだったら、辞めさせるからねって。1ヶ月で大丈夫そうだったから、そのまま。長いスパンでやるわけじゃなかったので、一気に合格タイムにもっていかないといけなかった。「これをやってろ」と言われたのに、やりたくないからやらない。でも同学年の人間が合格し出して焦り出して、自分で切り替えてやるようにした。ホント、サボってばっかいたんだけど…。僕が選手になる時にそういうのがあったからね。
デビュー後に襲った膝のケガ
ーーデビュー後にすぐケガをしましたよね? 盛夫 あの時はね…。僕もケガは多かったけど、膝はやったことなくて選手仲間に聞きました。「厳しい」っていう状態でした。固定して治すか、手術して治すか。すぐにルーキーチャンピオンレースがあって、それを目指してやるっていうんで、「じゃあ、手術だ」と。鋼管病院で手術したんですが、東山(公昭)さんが一緒にたまたま入院していて、次の日からリハビリ。東山さんがいたから、すぐにリハビリを続けていけたと思うんです。東山さんは厳しい人なので。そこはラッキーでした。ケガの仕方じゃないけど、まあしてもらっちゃ困るんだけど、鎖骨を折ったり何したりしても、入院せずに次に何をしていくかが明確ですね。 ーールーキーチャンピオンレースは2着でしたよね? 盛夫 あそこは頑張れたけど、その後「痛くてダメだ」ってね。その期の最後の方は休んで、針金が痛くて12月はそれを取ってだったけど、ぎりぎりチャレンジから上がれたんだよね。もしかしてそのままチャレンジだった、ってなると…ね。 ーーステップが狂うと怖い 盛夫 そうなんだよね。