山口瞳の名言「…と喫茶店、これを一軒ずつ知っていれば、あとはもういらない。」【本と名言365】
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。「洋酒天国」の編集者で、直木賞作家、31年に及ぶ連載「男性自身」の執筆でも知られる山口瞳。酒はもちろん、食やその店にも一家言持っていました。 【フォトギャラリーを見る】 寿司屋とソバ屋と、酒場(私の場合は赤提灯だが)と喫茶店、これを一軒ずつ知っていれば、あとはもういらない。 「寿司屋とソバ屋と、酒場(私の場合は赤提灯だが)と喫茶店、これを一軒ずつ知っていれば、あとはもういらない。」そして「そういうものがなかったとするならば、その町に住んでいるとは言えない」とまで言い切ったのは、作家・山口瞳。当の本人が暮らしたのは東京の西側・国立だった。 東京オリンピックが開催された1964年にこの地に引っ越し、「変奇館」と呼んだ自邸を終のすみかにした。町には先に語った4種の店がある。当然、ただ「ある」のではなく、どれも気に入り行きつけとした。だが、初めから知っていたわけではない。むしろ、当初は喫茶店、寿司屋、小座敷のある料理屋を「緊急に探す必要があった」。だから「引越してきて最初にやったのは、町中を隈なく歩くことだった」と綴っている。入れ替わるように国立から引っ越していった詩人・草野心平の行きつけも参考にしたとも。 そんな店のひとつに、喫茶店〈ロージナ茶房〉がある。山口瞳にとっては店主と小説や絵について「気楽に無駄話のできる喫茶店」だ。「旅館、料亭、小料理屋、酒場、喫茶店などは文化そのもの」で「そこを学校だと思い、修業の場だと思って育ってきた」という、作家ならではの行きつけなのだ。 読んでいると、自分の通いの店が頭に浮かび、山口に“ここはどうでしょう”と進言したくなる。もっとも、司馬遼太郎に「命がけの僻論家」と呼ばれた山口瞳なので、意見を変えることはないでしょうが。
やまぐち・ひとみ
1926年東京生まれ。58年、開高健の推薦で壽屋(現在のサントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。63年に『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞。同年には『週刊新潮』で連載「男性自身」がスタート。31年間で全1614回、亡くなるまで穴をあけることなく書き続けた。64年に国立へ移住。95年死去。
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