未成熟の小さなクジラまで…「捕鯨一筋」の男が明かした調査捕鯨の「虚しさ」とは?
捕鯨が続くのであれば、この仕事を続けたかった。 それは阿部の、いや南極海にクジラを追った男たちの偽りのない希望だったに違いない。 最後の商業捕鯨を終えた阿部は、日本共同捕鯨の船員たちとともに日本近海の漁業などを監視する船に乗っていた。 1987年10月、航海を終えた船員たちに書類が配られた。新たに発足した共同船舶という新会社に転籍し、捕鯨を続けるか意思を問うたのである。 阿部は調査初年度の船には乗らず、内地で海技士試験を受ける予定だった。次の航海に参加しない。だから自分には書類がわたされないのかと思い込んでいた。そのうち実家に郵送されてくるのだろう、と。 捕鯨船を降りるつもりはなかったが、陸にいる間に将来について考えたかったのである。 ● これからも捕鯨は続くんだから バカなことは考えるな 下船時、阿部はキャプテンに挨拶をした。 「お世話になりました。あとのことは家に帰ってから考え……」 阿部が言い終わらぬうち、キャプテンは言葉をかぶせてきた。 「お前の(書類)は出しといたぞ。会社に残るんだろ。これからも捕鯨は続くんだから、バカなことは考えるな。いま辞めてもなんにもなんないんだからな」 35年前を振り返った阿部は、「その一言でぼくの人生は決まったんです」と苦笑いした。
この時、阿部は24歳。キャプテンは、阿部がこれから調査と形を変えた新たな捕鯨を背負うと確信していたのだろう。ベテラン船員の間でも、阿部が後継者だという共通認識ができていたのかもしれない。 しかし本人の意向も確かめずに会社の転籍を決めてしまったのだ。冗談のような話だが、おおらかな時代背景と、ベテランたちが阿部に寄せた期待を感じさせるエピソードだった。 こうして1987年12月から翌年4月まで、はじめて南極海での調査捕鯨が実施された。初年度に設定した枠は300頭。実際は237頭のクロミンククジラを捕獲する。2年目以降から捕獲枠は最大330頭に拡大された。 商業から調査へ。捕鯨の形とともに、船の名称も変わった。捕鯨母船は「調査母船」に、キャッチャーボート(編集部注/母船に付属して鯨を捕らえる役の船)は「目視採集船」と呼ばれるようになる。 鯨肉は調査を終えたあとの“副産物”として扱われるようになった。 現場では、何が変わったのか。 「異なる点はルールだけです」と阿部は言う。 「調査になって厳密な捕獲のルールは決められましたが、我々にとって、クジラを探して、捕るという行為自体に変わりはないんですよ。その意味ではさほど戸惑いはなかったですね」