辰吉と伝説世界戦の薬師寺ジムから開設10年目で初の新人王。その名は森武蔵
状況が状況だけに安堵感や達成感が控え室に漂っていても良かったが、森武蔵本人に感動や感激といった類のものは見られなかった。 「KO対決と言われていので倒したかった。これまでの5試合で一番ダメな試合。弱点というか、改善すべき点が出た。右のリードが少なくて左に頼り過ぎていた。まあ良かったとこは、勝ったこととスタミナが持ったことくらいかな」 ずいぶん、冷静だなあ? そう問うと「ここが最終地点じゃないから」と不適に笑う。 実は、薬師寺会長の方が興奮していた。 ジム開設以来、10年目にして初の新人王。 「僕は、30年ほど前に後楽園ホールで岡部繁に負けているんですが、僕自身もジムとしても、それ以来となるここでの勝利ですよ。ジムを開いてから、ここで5試合やったけど全部負け。後楽園の独特の空気や雰囲気に呑まれていたんだろうね。武蔵が『僕がジンクスを打ち破る』と言ったが、その通りにやってくれた」 “カリスマ”辰吉丈一郎を判定で破った1994年のWBC世界バンタム級王座統一戦は、いまや伝説の試合となっているが、まだ駆け出しの頃の薬師寺は、プロ4戦目となる1988年5月に、ここ後楽園で、のちにバンタム級日本王者となる岡部繁に判定負けしている。以来、本人は現役時代に後楽園のリングはまたがず、ジム開設後も5連敗中。その“後楽園コンプレックス”を吹き飛ばしてくれたのが、秘蔵っ子の森武蔵だった。 ちなみに12月23日は、薬師寺会長が、1993年に辺丁一(韓国)からWBCの緑のベルトを始めて奪った記念日だそうだ。
森武蔵が、将来の目標に「格闘技世界一」を掲げたのは熊本で過ごした小学校時代だ。 父の厳しい指導の下、世界チャンプへの道をストイックに貫いてきた。小1で毎日ランニングを10キロ、無駄な脂肪をつけず食べたものを良質の筋肉に変えるため、鳥肉以外は口にせず油ものは厳禁。牛肉を初めて食べたのは中学のときで「世の中にこんな美味いものがあるのかと思った」。お菓子など間食も禁止。骨を強くするため、いりこがオヤツ代わり。ラーメンもプロ入りと同時に食べないようにした。その成果からか小6ですでにベンチプレスで80キロを上げるようになった。 小学4年までは、空手をやっていた。だが、膝と膝が激突して、右膝の皿を割った。今でも寒い季節は膝を暖めないと走れないという古傷。2度メスを入れた大きな傷跡が残っている。 「膝蹴りが使えないならば」と、ボクシング転向を早めた。元々、中学からボクシング転向するつもりだったらしいが、「空手じゃプロで金も稼げない」というのも理由のひとつ。小6から熊本のボクシングジムへ通い始め、U15全国大会で2度優勝。中3から知人の紹介で、名古屋の薬師寺ジムへ転籍した。 スポンサーの協力を得てアパートでの単身生活。 高校にはいかなかった。 「特待生の誘いがヤマほど来たが、本人がプロを強く希望した」と父の伸二さん。そのプロイズムは、筋金入りで、フィリピンに一人で修行にいき、計量にはスーツを着てくる。 「スターになる人間は、そのみだしなみから」とは本人の言。真剣である。 関西のJBC事務局の人間からは、「計量にふさわしい服を着てくるように」と言われたこともあるが、スーツ分を上乗せしているので、計量は800グラムアンダー。薬師寺会長は、「これからはフェザーでいきたい」と考えている。