本郷和人「歴史が恋愛なんぞで動くか!」といまだに『光る君へ』と距離を取っている人もいそうですが、平安時代はむしろ…道長と実資の一族の場合
◆実資と道長のおじいちゃんは兄弟だった さて、この実資ですが、おそらく「道長の系統より、オレの方が本家なのに」という思いをずっと捨てられなかったはず。それはどういうことかというと、実資、道長のおじいちゃんの代に遡る話なのです。 実資のおじいちゃんは実頼。道長のおじいちゃんは師輔。二人は兄弟で、お父さんは藤原氏のトップだった忠平。 忠平の後継をめぐって二人は競争するわけですが、お兄さんである実頼が常に一歩リードしていた。それで、村上天皇が即位した天暦元年(947年)に、実頼は左大臣に就任。同時に弟・師輔は右大臣に任ぜられた。 兄弟は共に村上天皇を輔佐し、「天暦の治」と呼ばれる善政を現出したのです。
◆藤原氏の本流が実頼系から師輔系に 天暦3年(949年)、父・忠平の薨去のあとを受けて、実頼は藤氏長者となりました。 これで勝負あり…かというとそれが違ったのですね。というのは、実頼のお嬢さんが男子を産まなかったから。 実頼は娘の述子を、師輔は安子を、それぞれ村上天皇の女御として送り込みました。 安子が東宮に立てられた憲平親王を始め、為平親王、守平親王を生んだ。ところが述子は子どもを産むことなく、亡くなってしまった。 天暦4年(950年)には憲平親王の立太子が決められましたが、この重大事は村上天皇・藤原穏子(天皇の生母)・朱雀法皇(天皇の兄)・師輔の密談によって決定されたもので、氏長者であったはずの実頼は関与できなかったのです。 このことから藤原氏の本流は実頼系から師輔系に移り、孫の代になると、実資は道長らの後塵を拝することになった。
◆それが平安時代 天皇と婚姻する。愛を育んで、その結果として子どもが産まれる。 こうしたできごとが事実として、政局を決したのです。 であるからこそ、恋愛や婚姻はとても大切。 「天皇のそばに仕えさせる娘がいないのなら、子どものうちから養女を育成して次々に送り込めばいいんじゃない?」 いや、そういうのはもっと後の考え方なんですね。 生活に追いまくられる庶民にしてみれば縁遠い、スーパーセレブたちの話ではありますが、政治も恋愛がしっかりかかわる。 それがむしろ、平安時代という時代だったのです。
本郷和人
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